テラハ問題雑感・編集による演出にも自覚的でありたい

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自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か(斎藤 環) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

違うと思う。リアリティショーの演出とは演技強要やキャラ誘導ではなく「編集」によるもの(スタジオ出演者の言動含む)。これはドキュメンタリーや、報道ですら共通する問題。だからこそ解決が難しい。

2020/06/03 13:14

b.hatena.ne.jp

自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か(斎藤 環) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

<a href="/wschldrn/">id:wschldrn</a> 演出の担い手としての「スタッフの誘導」と「編集」は両方考慮するべきじゃないかな。メモ<a href="https://anond.hatelabo.jp/20200603211735" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://anond.hatelabo.jp/20200603211735

2020/06/03 21:25

b.hatena.ne.jp

メモとのことで返答を求めていらっしゃるわけではないのでしょうが、反応したくなったので。

 

キャラとリアルの区別は本人でもつけようがない

anond.hatelabo.jp

wschldrn氏が想定するように、すべて事後的な編集によって出演者のキャラクター付けが行われているならば

私は「すべて事後的な編集に」よると主張してるというよりは、編集による演出のほうが現場での胡乱なキャラ誘導などよりもよほど明確な作為だし、そっちをまず問題にすべきという立場です。たとえば斎藤氏の記事では、

特定の状況において指定されたキャラとして「リアルな反応」を表出することを強いられる

キャラと自身の区別がつきにくくなるような演出を強いられれば

このあたりの記述が私にはかなり違和感があります。

そもそもよほど極端で意図的なキャラでないかぎり、キャラと自身の区別ってそう簡単にはつかないものではないでしょうか。斎藤氏は文中で「リアルとフィクションのあわいを演ずる」として私と同じことを書いているようにも見えるのですが、上記引用部分と併せて読むと、これは単に「作られたキャラにリアルな感情を乗せる」というような意味で、結局はフィクションとリアルをきれいに峻別可能なものと扱っているようです。

たとえば山里さんの「非モテで根に持つタイプ」みたいなキャラは、テラハの製作陣が「指定」して作ったものか。それとも完全に山里本人のリアルな人格そのものなのか。私はどちらでもあり、どちらでもないと考えています。テラハのようなキラキラ恋愛番組(としてパッケージされている場)では非モテ意地悪キャラでいたほうが席が作れるので、多少キャラを強めに出すことはありうる。一方、足軽エンペラー時代からの彼のエピソードを紐解けば、本当に根っからの陰口コンプレックス野郎であるのも確かで、結婚後の今でも卑屈な攻撃性が染み付いて抜けていない。

(そう、山ちゃんは南海キャンディーズの前に組んでいた足軽エンペラーというコンビで『ガチンコ!』に出演しているのです。芸歴を通してリアリティショーとの関係が深い。)

キャラは人間がカメラに収められる際に不可避的に発生するものであり、スタッフの指導や遠回しな強化子がなくても誰しもカメラの前で完全なリアルではいられないのだと思います。id:nikunonamaeさんが指摘されたようなSNSとの相互的干渉の影響もあるでしょうが、まず何よりもカメラという異物によって自己が完全に客体化されることが大きい。だから仮に撮られただけで放映や配信がなくても、映された人間は絶対にリアルではないはずです。

 

カメラの嘘を信じ込む危険性

また、(元)出演者で今回の件に言及している人は口を揃えて「やらせはなかった」「ただし編集には文句がある」と言っています。これだけを見ても、編集段階での演出にまったく触れずに本件を語るのは無理があると分かるはずです。

https://pbs.twimg.com/media/EZB2D0lUwAAc2vx?format=jpg&name=medium

https://www.instagram.com/iamemika21/?hl=ja

dot.asahi.com(なぜか「やらせ」を否定すると番組擁護だと短絡する人が多いんですが、誰もそんなこと言ってない……)

この件に関して出てきた様々な意見を追っていくと、番組側の問題を指摘する声の多くが当初は「やらせ」「台本」を声高に疑っていたのが、だんだんとトーンダウンして斎藤氏のように「きっちりした台本はなかったかもしれないが」「確かに具体的な指示も強制もなかったのかもしれない」とぼんやりした指摘にとどまるようになっているのは象徴的です。撮影現場での演出も多少はあったでしょうが、そこだけを取り上げて編集の問題点を語らないのは結局のところ、「カメラは真実を映し出す」と無邪気に信じ込んでいるからではないでしょうか。

「NGシーン」を流したり、出演者たちが「演技」をネタにするという解決策は、虚構と現実を完全に切り分けられるという考えが前提にあります。しかし、そのような芝居がかった「演出」はむしろ現代の視聴者には自然なものとしては受け入れられないのではないでしょうか*1。演技ができないはずの「素人」を編集でドラマチックに仕立て、自分の人生をドラマにしたい「素人」の共感を呼ぶのがこの手の番組の基本構造であり、リアリティショーがここまで爆発的に人気になった理由でもあります。真に迫るようなリアルな「演技」ができる出演者など視聴者は求めていないでしょう(それが見たいならドラマを見る)。

テラハに限らずやらせだ、台本だ、で片付けようとする浅い批判が危ういのは、編集によって行われる、より意図的な演出に目が行かなくなる可能性が増すからです。最近では『報道ステーション』が世耕参院幹事長の会見内容を切り貼りしたとの批判を受けて謝罪した件がありましたが、発言者の意図をべつのものに見せかける編集は良くない、と認識できる人は多いのに、テラハのようなバラエティ番組の話になると「台本を渡してるんだろう」などと急に現場レベルでのお芝居しか想定しなくなるのは何なんでしょうね。私はバラエティを見るにもバラエティリテラシー的なものは重要だと考えていますが、リアルとフィクションの境目を曖昧に見せるようなリテラシーが必要とされる番組演出は今後ますます難しくなっていくんだろうと思っています。

 

必要なのは人間の多面性を見せる演出

編集によってドラマを作り出す手法は映像表現の根幹であり、それ自体がいいとか悪いとかいうものではないです。この点はブコメで指摘したとおり、ドキュメンタリーや報道まで視野に据えて考えていく必要があります。リアリティショー特有の問題として語るのはむしろ矮小化ではないかな。

出演者への誹謗中傷を減らすために必要なのは斎藤氏が書くような「虚構度」を上げるような方策ではなく、むしろ逆にカメラが捉えたそのままをできるだけ無作為に見せる方向ではないでしょうか。あるシーンで理不尽に激怒していた出演者が、別のシーンでは喧嘩した相手と普通に会話しながら食事をとっているとか。カメラの前では無意識に「演技」に走る誰もが持つ習性を、厭らしいものとしてではなく自然なこととして捉える視点はありうるはずです。それを通して、出演者たちが当然持っている多面性を映し出し、人間の複雑さを視聴者に提示するべきです。ドラマチックで分かりやすいキャラが満載の番組より見る人は格段に減るでしょうが、出演者の命を危険に晒すような悪意ある編集に頼らず面白さを追求する使命が制作側にはあります。

 

カイジ』の演出に見る優しさ

ところで、今回の件でリアリティショーの構造を『カイジ』になぞらえる意見をたくさん見ますが、数年前に実際にリアリティショーとして作られた実写版カイジこと『人生逆転バトル カイジ』はなかなかの出来だったと今も思います。

www.tbs.co.jp

担当した藤井健太郎は「やらせ」と「演出」の違いを意識的に扱いながら*2面白いバラエティに仕立てる稀有な才能の持ち主で、『カイジ』でも一見どぎつい見世物ショーの体裁を取りながら、最後まで見ると出演者たちを心から応援したくなるような爽やかな後味を残しました。

その中で私がもっとも印象的だったのは、出演者の一人が放った次の一言です。

 

「テレビ的に、あたしらだけでは観てる人が面白くないんじゃないかなって気持ちがあります」

 

発言者はギャンブルで借金を作った地方在住の主婦で、ファーストバトルの鉄骨渡りで敗退した8人の中から一人だけ復活させる者を選ぶ場面での発言でした。他の進出者も全員が「素人」の状態で、敗者の中から芸人・こりゃめでてーな伊藤を選んだ理由です。

この発言が示しているのは、今の時代において芸能人ではない「素人」の側もじゅうぶんテレビに映ることに自覚的であり、さらには番組そのものの成功を出演者として一緒に形作っていく意識すらあるということです。同じシーンでの他の出演者の発言ですが、「盛り上げるには、やっぱ伊藤さんのほうがいいかなって」と話す彼らは、番組の用意したゲームで勝ち残り賞金を手にするという目標とともに、番組の盛り上がりが自分たちの手にかかっていることもはっきり認識しています*3

私が面白いと思うのは、この発言を編集で落とさず使うセンスです。テレビの世界で重宝される「素人」は芸能界のルールに囚われない素朴な奔放さを持ったタイプで、カメラを意識してそれっぽく振る舞う「素人」は疎まれたり叩かれる傾向があります。しかし今の時代、テレビ番組の企画に応募してくる「素人」が自分がどう映されるかに自覚的でない可能性は極めて低いわけで、カメラの前では誰もが「演技」せざるを得ない、という事実をきちんと写し撮って番組に組み込んだ『カイジ』製作陣は誠実だったと思います。普通なら興を削ぐとしてカットされかねないこのシーンをオンエアに乗せることで出演者の彼らはあくまでカメラを意識しつつゲームに参加しているのだという前提を視聴者に印象づけることができるし、それは斎藤氏が提案したNGシーンやらオフショットやらといった現代においては作為的すぎて虚構にしか見えない演出より、よほど効果的でしょう。

参加者たちを「クズ」と呼ぶ原作の世界観を維持しながら出演者たちを気持ちよく応援させてくれた『カイジ』と、おしゃれでキラキラしたシチュエーションで出演者を追い詰めてしまった『テラハ』の違いを、私も視聴者の一人として今後も考えていかないといけないなーと思っています。

*1:ブコメで数人が言及していた暴力的AVの最後に出演者インタビューを入れる手法、あれは「このAVは虚構です」という宣言ではなく、出演者たちが自主的に参加していると示すためにある。暴力的な性行為をプレイとして楽しむ嗜癖は存在するし、犯罪とプレイを分けるのは自由意志で参加しているかどうか。

*2:水曜日のダウンタウン』での彼の肩書きは「総合演出」。

*3:ちなみに同じく敗者の中には空気階段もぐらや岡野陽一もいたのですが、芸人3人の中では一番実力がなさそう=脅威にはならなそうな伊藤が選ばれたあたりも興味深かった。さすがに選んだ出演者たちがそこまで意識してたわけではないでしょうが