被害者が守られるべきなのは、彼らが「善人だから」ではない

 

いわゆる「被害者ポジションの奪い合い」がなぜ生まれるか、過剰なまでの加害者バッシングの心理、そこから抜け出すには、などの話です。

 

被害者は善人じゃないし、その必要もない

痛ましい事件や事故が起こった時、被害者になった方々の人生をやけに美化する報道がなされることがあります。親思いのいい子だった、夢に向かって真面目に頑張る勤労青年だった、休日に家族サービスをする優しいお父さんだった、などなど。
こうした報道の執拗さは一般的にプライバシーの侵害として非難されることが多いんですが、もう一つ大きな問題があります。それは、被害者を被害にあったというそれだけの理由で「善」と規定していること。
「被害者を聖人君子のように報じるけど、仮に彼らが悪人だったら?」
「そんな奴なら被害にあっても仕方ない、と言われるのか?」
みたいな疑問が湧いてきます。
被害者を規定するのは「被害にあった」という要因それのみであって、そこに善とか悪とかの価値判断を入れる必要は本来ありません。

 

なぜこうした価値判断が生まれるのかというと、被害者に対置される加害者は明確に「悪」であるからです。そして善悪とは相対的にしか成立しえないものなので、悪があるからには善が必要になり、加害者に対置する被害者を善とみなすのです。
加害者の悪に対して被害者は相対的には善でしょう。ただ、それなら被害にあった人以外のまったく無関係な人まで「加害者と比べれば善」ということが言えてしまうわけで、この善人判断はほとんど意味がないわけです。
加害者を悪と規定するのは彼らを法律で裁くためです。そして法は道徳の最小限と言われるように、法律の規定する悪はいわば「これとこれは悪です。その他は法律では裁きませんよ」ということになっている。「これとこれは善です」ということを規定する法律はないのです。

 

その代わりに、社会通念上の道徳律とかマナーなどがありまして、法律では裁けないけどこういうことを言ったりやったりするほうが(社会が健全に機能するためには)いいよね、みたいな基準になっています。*1人の顔を見て鼻で笑う、というのは一般的にはマナー違反=道徳的悪でありやらないほうがいいことですが、笑われた人が善ということにはなりません。チャリティに寄付するのは社会通念上の善行ですが、寄付しない人が悪人だということではない。

 

つまり、善悪というのは相対的にしか成立しえないものだけれど、ひとつの状況において常に一対一で善と悪が成立する、というわけではない。そして加害と被害の関係において、加害者は悪と規定され得るけれど、それは被害者が善と規定されることを意味しないのです。
事件や事故の被害者をことさらに善人視するのは、加害者と被害者という対比構造に、善悪という別の対比構造を無理やりくっつけたことによる錯誤です。

 

被害者は法律的に、あるいは道徳的に正しかったから被害を受けたわけではないし、被害を受けたことによって正しくなったわけでもありません。
被害者は善人だから守られ、ケアされるべきなのではなく、被害を受けたというそれだけの理由でこそ守られ、慰められ、労わられるべきなのです。被害者に対する善悪の価値判断など必要なく、被害を受けた人はその被害を癒すために保護されるべきなんです。

 

いわゆる「被害者ポジションの奪い合い」が生じるのは、この錯誤を意識的にか無意識にか内面化している人がいるからです。被害者にさえなればそれがすなわち善(ほとんど「絶対善」ともいうべき)ポジションを獲得できることになるので、「自分はこんな被害を受けた!」「自分はかわいそうな被害者だ!」と叫んで優位につこうとする。
俺は私は被害者だから優しくすべき!という段階ならまだ、蒙った被害に応じたケアを受け取れたほうがそりゃいいよね、と個人的には思いますが、厄介なのはここに善悪判断が合わさって「俺は私は被害者であり、ゆえに善なのだから、お前らは悪だ」と他人を断罪し始める場合です。言ってることが無茶苦茶。

 

では、明確に悪である加害者への非難なら際限なく行ってもよいか。

 

公正世界信念による加害者への過剰なバッシング

最近こんなまとめがありました。

togetter.com

公正世界信念はざっくり言えば「世界で起こることは因果応報であるべき」「善人には幸福が、悪人には不幸があるべき」みたいな信念のこと。
これは主に被害者バッシング批判の文脈で持ち出されることが多い用語なのですが、最近ちょっと違った角度から研究した論文が出てたみたいなので、そちらから少し引用します。

被害者非難と加害者の非人間化――2種類の公正世界信念との関連――

内在的公正世界信念の強さは,加害者への厳罰指向につながっていた。一方,被害者非難とは関連が見られなかった

公正世界信念の強さは,加害に至る理由が説明不可能で,被害者の被害の回復も望めない場合,加害者の悪魔化(demonize)や患者化(patientize)といった非人間化(dehumanizing)による信念維持方略につながる

内在的公正世界信念の強さが加害者の非人間化につながり,その結果として厳罰指向が強くなる

 詳しくは論文を読んでほしいのですが、この研究では「加害者が特定されている場合、内在的公正世界信念*2が強い被験者は、事件の加害者に対する厳罰を望む傾向が強い」という結果が出ています。一方、よく言われる被害者バッシング(被害者にも落ち度があったのだとか言って被害者を責める傾向)との相関は見られなかったとのこと。
加害者が特定される場合、つまり犯罪とか事故とかですね(実験では架空の新聞記事が報じる傷害事件を用いています)。公正世界信念が取り沙汰される場面と言えば日本だと311の震災などでしょうか。天災とか、非難すべき加害者がいない場合に被害者バッシングに向かう心理として研究されてきたみたいなのですが、この研究ではその心理が特定された加害者への厳罰指向にも関連があると結論付けています。
そして、そのような厳罰指向が生まれる前段階として、加害者の「非人間化」が行われる。自分とはまったく違う悪魔のような生き物だと言ったり、重篤な病気を患った人間なのだと言ったりして、自分とは無関係な存在とみなすということですね。

 

加害者は刑法上の悪ですが、べつに悪魔ではないですよね。病人である場合はあるが、加害者の素性を知らないまま病人だと決めつける必要はない。
「加害者は自分とはまったく違う悪人であるべき」「悪人は厳罰に処すべき」「加害者が特定できないなら被害者に落ち度があるべき」「世界の善悪は公正であるべき」といった信念は、つまり「自分にとって受け入れがたい状況があったとき、何かをバッシングする理由を作り出す」ために生まれるんじゃないのかなーと読んでて思いました。

 

被害者にも落ち度があったのだ、などと指摘するのは、まあ不必要な態度だろうと思います。言ってるほうは「なんか有益なアドバイスしてやろう」とか思ってるのかもしれませんが、誰も頼んでません。ましてや被害にあったことを理由に貶したり、辱めたり、見下したりするのは許されることではない。さっきも書いたとおりそれは被害者が善だからではなく、被害にあい苦しんでいる人だからです。

 

ただし、ここで「被害の元凶たる加害者許すまじ。市中引き回しの上打首獄門じゃ」みたいなことを言い出す人もまた、信念としては同じものを抱えてしまっている、というのが興味深い。いじめ事件の加害者への過剰なネットリンチとかもそうですが、悪とみなした相手には何をしてもいいなんてことはない。犯罪であれば司法に則った罰なり療育が与えられるべきだし、犯罪ではない、たとえばネット上でおバカなこと言ったりやったりした人に対して、過剰で執拗なバッシングを続けるっていうのも、私は見てていい気分はしません。やめなよー、と思います。あなたのやってるそれ、正義のつもりかもしれないけど、心理学では被害者叩きと同じ構造らしいよ?とか言ってやりたくなります。

 

適切な批判は必要なことです。でもそれが行き過ぎる場合、間違った信念に基づいた行為として、それ自体もまた批判されるべきだろうと思います。

 

断罪するより他にできること、したいこと

結局、被害者をことさらに善と規定せず、過剰な加害者叩きにも陥らず、加害と被害に向き合うためにはどうすればいいか。
加害・被害の当事者である場合は別として、ここでは第三者の立場である場面を想定して書きますが、悪への適切な批判以外でできるのは、結局は被害者の気持ちに寄り添うことではないでしょうか。

 

というか、私は凡俗なのでそれくらいしかできない。空から一億円降ってこないかなー、みたいなことをいつも考えている凡俗ですので、なにが善であるとか悪であるとか決めることはなかなかできません。
ひたすら単純に、「この意見は同意できるな」とか「この人はなんかやな感じだな」とかいう好き嫌いを発展させた共感・同情の姿勢。論理的な意見は尊重するけど、言ってる人がなんかやな感じだった場合は共感せず「ふーん、まあ情報だけ受け取っとくわ」とか感じ悪い態度をとります(心の中で)。
相手が間違っているなら正せばいい。共感できなければ離れればいい。誰かの行動のせいで傷つく別の誰かがいるなら、なるべく早く後者の元へ行って避難させたい。それもせず真っ先にお前は悪だ極悪人だーと断罪する必要を感じないし、そんな権利が自分にあるとも思ってない。まあ、バーカアーホくらいは言うけど。

 

ただ、傷ついている人がいた時に、できるだけ寄り添っていたい。寄り添うと言うとなんか物理的に密着するようでキモいですが、気持ち的なことです。傷ついた人が傷ついたこと、傷つけられたことが不当であるか、善であるか悪であるのかというより前に、そのような気持ちになったことは残念だ、悲しい、つらいだろう、と言える人間でありたい。
傷ついた人が善人だから同情したり慰めるのではなく、傷ついているからという理由で労りたいです。仮に万が一、傷ついた人が悪人であり、加害者であり、他の誰かを傷つけていたとしても、私は私の好き嫌いによって同情・共感を寄せるかどうか決めるだろうと思う。その上で、必要があれば適切な批判を加える理性も持ち合わせていたい。
そうしないと私がつらいので。傷ついている人を見てると、なんかつらいので。自己中心的な理由で、私は他人を労りたいのです。

 

そんなふうなことを、下記の記事を読んで考えました。

yarukimedesu.hatenablog.com

 

父親とお風呂に入ったことがトラウマになってしまったなら苦しいだろうし、なんか分かんないけど誤解されたら、それもまた苦しいだろう。
善か悪かは知らないけれど、傷ついたのなら、つらいよね。

*1:道徳やマナーの他に宗教の教義という倫理規定もありますが、これはもっと原始的に善悪を規定するもので、法律や社会的マナーに先立つ礎になっている。

*2:上記論文より。「内在的公正世界信念(Belief in Immanent Justice: BIJ)は,ある出来事(特に負の結果)が起こった原因を,過去の行い(負の投入)によるものと信じる傾向である。得られた結果には正義が内在すると考え(Hafer&Begue, 2005),幼児期からの満足の遅延に関する学習や,報酬・罰の経験を通して形成,強化される(Bennett, 2008)。」

鶉まどかさんの「岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私」を読みました

鶉まどかさんの「岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私 サークルクラッシャーの恋愛論」を買いました。読みました。

www.amazon.co.jp

サークルクラッシャーという経験を語って一躍人気ブロガーになった鶉まどかさんが語る現代の”歪んだ恋愛市場”*1という触れ込み。鶉さんのブログは全て読んでいたのですが、本という形のほうが個人的には読みやすくてよかったです。ブログでは体験談とその分析記事が多いのですが、本ではそこからさらに対象を広げて、社会全体のあり方を論じています。ブログで読んだエピソードはほとんど一字一句違えずにそのまま収録されているのですが、やはりブログの時点できちんと計算して書かれていたのだなあ。構成がうまいです。各エピソードがブツ切りにならず、論の流れに無理なくはまっています。読みやすい。ちなみに岡田斗司夫についてはタイトルと序章、あとがきに類似例として言及されるだけで、あの騒動に著者が関わっていたとかではありません。

さて、鶉さんが2014年9月に本格的にブログを始めてから、私は全ての記事に目を通してました。でも、よい読者とは言えなかったと思います。サークラという行為で他人の心を弄んでいた人に対する反発心と嫌悪感があったのですね。先日出たインタビュー記事につけたブコメで、私はとんだ間違いをやらかしてしまいました。

岡田斗司夫愛人事件とサークルクラッシャーは社会全体の問題である - エキレビ!(1/5)

ブログで何度も思ったけど、この人は自省が足りてない。「で、なんでサークラになったの?」とブコメでいくら問われても決して答えずに非モテ男性向けの恋愛テクとか書くし。社会の問題より先に自分の問題でしょ。

2015/08/18 17:51

b.hatena.ne.jp

このブコメ、「なぜサークラになったかという問いに答えようとしない」って書いてるんですが、ブログに思いっきりエントリありました。

「なぜ」わたしはサークラになったのか:動機編 - あの子のことも嫌いです

しかも私これ読んでたのに(本読んでて思い出した)、なぜあんなブコメを……。これは完全に私の勘違いなので、ほんとにごめんなさい。たぶん読んではいたけど、あまり身を入れて、信用して読んではいなかったんですね。失礼な話ですが。顔出しされてるツイッターもまだ連携されてなかったので、これどこまで本当なの?増田でよくある創作実話っぽい感じ?とか思ってました。謹んでお詫びします。

このブコメは当社比で口調がきついんですが、これは苛立っていたからです。ブログでも本でも、鶉さんの論には頷けるところが多々ある反面、「あなたがそれをそう語るの?それでいいの?」っていう反発意識がどうしても消えなかった。本を読んでも、そこは解決できませんでした。苛立ちの原因を考えてみた結果、なんだかいろんなことがまとまってきた気がしたので書いてみます。残念ながら本のレビューにはなっていないと思います。あと、長いです。

一人一人に向き合っていない、ように読める

サークルがクラッシュする、という現象を成立させるためには、クラッシュする側(故意または無意識)、そしてクラッシュされる側(複数)が必要であり、そのどちらが欠けても起こり得ない。その意味で、クラッシュされる側の男性たちにも原因があるのは確かだと思います。鶉さんは彼らを責めているわけではない。むしろ感情的な非難を排除して、きわめて冷静に観察し、分析している。

私がどうしても乗れなかったのは、そこだと思う。たしかに「クラッシャられ」と呼ばれる男性たちのような人はいる。女性にもまま見かける。彼らを総体として語ることで見えてくる現代社会の問題点もある。でも、鶉さんが意図して近づき、自分を好きになるよう仕向け、告白させた男性たち一人一人は決して「総体」ではない。サークラ当時は「相手を等身大の存在として認めない*2」ような心理状態だったとしても、今なお分析対象として、感情を交えずに語られる「総体の一部」としての男性たちは、やっぱりかわいそうだと私は感じてしまう。

謝罪すべきとか懺悔すべきとか言ってるのではない。そんな湿っぽい文章、私なら読みたくない。私の倫理観なんてその程度だし、過去のサークラ行為を永遠に断罪されるべきなんて思わない。ただ、私は怖いのだ。意図して他人を傷つけていた自覚のある人が、傷つけた個人に対してどう向き合っているのかが見えないから。

鶉さんは、彼ら一人一人に対してどう思っているんだろう。彼らの至らなさを論理的に「分析」するより前に、どんな「感情」を彼らに持っているんだろう。

鶉さんが、サークラ時代に利用してしまった男性たちについて何も感じていないとは思わない。むしろ考えに考えて悩みまくっているからこそ書けなかったのかな、とも思う。不自然なまでに感情描写が欠落しているのも、割り切れないままいいかげんなことを書きたくないからなのかな、と。

鶉さんの文章において感情の描写が欠けているのは意図的だと思う。本で言えば感情が書かれているのは、思いを寄せていた男性がアイドルにハマって失恋した話、そして150万円を貢いだ彼氏の話。それから、一章を使って語られる鶉さんとお母様との関係の話(細かく言えばもう少しあるけど、文脈から読み取れる程度で直接的ではない)。

もちろん自分が恋をした相手や葛藤を抱えた家族の話だから、感情が動いて当然だ。それらの描写に共通しているのは非常に自罰的で、自己否定的な鶉さんの感情である。そして、自己完結してしまう。

その言葉を聞いて、わたしは情けなくなった。あれだけのお金を受け取っても飄々としている彼に対してではない。自分に対してだ。(中略)
お金を出していなければ心穏やかに過ごすことさえ出来ない自分が、情けなくて仕方なかった。*3

鶉さんはサークラ行為をしていた自分を責めるけれど、それは相手に向けた感情ではない。サークラで傷つけた相手に対してどう思っている(いた)のか、という部分はあえて語られず、統計データを用いた分析に移ってしまう。

だからこれは、論の内容ではなく、論の立て方を問題にしている。傷つけた彼らへの感情を書かず、当事者の立場にあって「クラッシャられ」と呼んで類型化してしまう論法を、私は受け入れられない。些細なことを気にしすぎと思われるかもしれない。でも鶉さんのブログの最新記事が炎上した理由も、結局は同じなんじゃないかと思う。

 

社会の問題?

あの記事で、特に炎上を誘ったのはこの部分かと思う。

責任の所在はどこにあるのか、と言えば、全てにある。女を自分のお遊びとしてしか考えていないオッさんたちにも、それについていってしまう女の子たちにも、そして彼女たちを救えない若い男性たちにも。

岡田斗司夫騒動にみる、愛人になった「彼女」とならなかった「私」 - あの子のことも嫌いです

この「彼女たちを救えない若い男性たちにも」という記述、これ自体は鶉さんがそれまでずっとブログで主張してきたことで、ここで言われてる「若い男性たち」というのは「(超受け身体質でリスクを取らず、でも恋愛の美味しいとこだけ欲しいとか甘いこと言ってサークラに引っかかっちゃうような)若い男性たち」のことですよね。決して若い男性全体を指して糾弾しているのではない。それはこの記事だけ読んでも文脈から容易に読み取れる。

ただし、鶉さん自身がサークラとしてそのような男性を積極的に傷つけてきた本人だ、という事実はやっぱり度外視できない。当事者はフラットな視点など持ち得ない、と私は思う。引っかかってしまった彼らのような人たちにはなるほどたくさんの問題点があって、それを指摘することが結局は彼らを「救う」 ことにつながるかもしれない。でも元サークラ本人がそれをする際にはもっと慎重な手腕が必要なのではないかなあ。その慎重さは端的には、私が先ほど書いたように彼ら一人一人への眼差しを可視化することであり、一方的ではあっても、というか一方的にしかなりようがないながらも、どのような感情を抱くのか鶉さん自身の言葉で語ることではないだろうか。

それを経ずに「若い男性たちにも」と書いてしまったり、統計データから世相を分析したり、岡田斗司夫を持ち出したりと拡大していく論法には私はついていけない。すごく大事なものを取りこぼしていると感じる。恋愛は個人的なものだから、体験から得た何がしかを社会全体に敷衍するのは難しいものだけど、だからこそ丁寧にやらないといけない。本にする際には個人の体験談にとどまらない社会分析が必要だったかもしれないけど(じゃないと新書として売れないしね)、すでにブログの段階で私が指摘した問題点はあった。あの炎上は、個人の体験談をきちんと消化しないまま社会分析につなげてしまったことが原因だと思う。同じことが本にも受け継がれてしまったのが残念。各論同意、総論に違和感というモヤモヤした読後感。

 

「傷つくこと」より「傷つけること」が怖い

個人の体験をきちんと消化する、とはどういうことか。

私なりに思うのは、「他人を傷つけることについてよく考える」ことじゃないかな、ということ。

本書ではクラッシュされた男性たちの特徴として「傷つくことを過剰に恐れる」という点が指摘されている。でも個人的に、ここ最近話題になっている若い男女の恋愛離れというのは、逆に「傷つけることを過剰に恐れる」ことも原因の一つじゃないだろうか、と思っている。

たとえば、以下のエントリで指摘されているように。

「男は〇〇だ」「男体持ちは〇〇だ」のように言われてしまうと、新妻君のように自分は気にしすぎてしまい自分の身体に対して居心地の悪さを感じてしまっているのだと思いました。

鳥飼茜さんの『先生の白い嘘』を読んで考えたこと。フェミ寄りの人のことが気になりつつも、どこか近づきがたさを感じてしまうことについて。 - 自意識をひっぱたきたい

早い段階で男性性欲の暴力性を認識し、自分の中の男性性欲を表に出ないように徹底的に抑圧しているのが草食系男子である。
この抑圧の過程の多くは男性本人にとっても無意識下に行われるのが厄介だ。

まずは男性が男性を救う責任がある

男性によって書かれたこれらのエントリで言われているのは、男性性欲に基づく対女性コミュニケーションが現代の若い男性においては無意識下に抑圧されてしまう、という現象。女性に関しては「待ちの姿勢がモテの秘訣」みたいな、ルールズ的なノウハウ(を騙った規範)はずっと昔から繰り返されてきた。こうした抑圧を内面下しているとまず自分の能動的な欲求を肯定できないし、結果として「愛されたい」という受け身な欲求だけが肥大してサークラ現象を引き起こしてしまう。

だから鶉さんの、「愛されたいと願うより愛することを大切にしよう」という提言は正しいとは思うんだけど、それでも元サークラの人がそれを言うのは、やっぱり怖い。危険だ、と感じてしまう。元サークラという立場でそれを言うなら、「傷つくことを恐れるな」と言うより先に、「傷つけることへの恐れにどう対処するか」を言わなければならないのではないだろうか。そして、サークラという行為を介しての関係性の場合、判断が極端に難しくなりそう、という問題もある。男性たちが傷つくことを恐れていたのか、傷つけることもまた恐れていたのか、あるいは単に鶉さんに興味なかっただけなのか。判断が難しいことを「傷つくのを恐れていたのだ」とまとめてしまうのは、少し乱暴ではないかなあ。

この記事内でサークラ行為にあった男性たちを鶉さんが「傷つけた」という表現を何度かしているけど、実際には恋愛において明確な加害者も被害者もいない場合のほうが多いと思う。DVや詐欺とかの例外を除いては。人間関係において傷つけ合うことは責任を引き受けるってことでもあり、関係を深める上で完全に回避はできない。だからどちらかだけを問題にするのではなく、傷つくこと、傷つけること、両方への考察が欲しかったなあと思いました。本書の結論部分で「傷つけ」ることにも言及はあるんだけど、掘り下げられてはいないので。

私は前掲のブコメで事実誤認で苛立ったバカなコメントをしてしまったことで、「ああ悪いことしちゃった。これは行動せねば」と思ってこの記事を書いているわけですが、これもまた、他人を傷つけたってことについて私なりに考え、リカバリできればと思っての行動です。リカバリできるかどうかは相手次第なので自分ではどうしようもないけれども。恋愛においても、好意はあるけど下手なことして相手を傷つけるのが怖いから踏み出せない→関係が終わりました、みたいな経験もあった(踏み出さないこともまた、相手を傷つけることになりうるっていうのが厄介だよね)。

 

 まとめ

長々と偉そうな文体で偉そうなブコメした言い訳を書いてきた感じになってしまいました。

ネット中心に長らく一方的な都市伝説みたいに語られてきたサークルクラッシュという現象について、当事者の視点から解説する鶉さんの論は斬新だし、とても鋭い。しばしば女叩きの文脈を伴うサークラ言説*4へのカウンターとしても意義があると思っています。

ただ、恋愛を語る際に当事者が感情を排して分析に徹する、という姿勢が私には合わないのだと思う。鶉さん自身もサークラ行為によって傷ついただろうに、なんだか無理をしてる気がする。社会全体に警鐘を鳴らしてみたり、恋愛相談に答えたりというのも、むしろメサイアコンプレックス的なものなのかな、と不安になる。そしてこうして勝手に「分析」するって失礼だよなあ、と、やっぱり「傷つけることへの恐れ」が克服できない問題に直面したりもする。

なんにせよ、ブコメするときはちゃんと事実確認して言葉に気をつけようと思いました。反省。

*1:コア新書のページより http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_015.html

*2:前掲書、p90

*3:前掲書、p173

*4:はてなキーワードサークルクラッシャーの項とかも論争があったみたいですね。そもそもオタク全体の男女比ってそんなに偏ってはいないはずなのに、あたかもオタク(っぽい集団)=男社会のような前提から語られることがおかしいんだけども。

坂上忍氏・土田晃之氏によるananの腐女子記事がどうしようもない

ananで連載されている、坂上忍さんと土田晃之さんの『あなたがいいならそれでいいけど』。毎回いろんな「女子」にスポットを当てて、「アリ」か「ナシ」かをお二人が回答する、みたいな趣向のようです。


現在発売中の号で取り上げられたのは「腐女子」。ですが、この内容が偏見ばかりで実に醜悪。ツッコミ入れようとすると全編ツッコミの嵐になりそうなんですが、ひとつひとつやっていきます。

 

以下記事へのツッコミ

まず前フリの説明文から。

【ふじょし】 マンガ、アニメの登場人物など、美少年同士の恋愛を愛好する女性のこと。

腐女子やBLの説明文で「美少年」に限定してるのよくあるけど、美少年同士とは限らないですよ。中年にも老年にも萌える人はいるし、美しいかどうかも主観によりますし。たとえば作中で「美少年」と明示されてるキャラにしか萌えない、という人は少数派でしょう。*1あと腐女子の中でも諸派あるけど、女体化はどう位置づけるんでしょうか。

次に、坂上忍さんの回答から。

性癖は個人の自由だけど、ちょっとフツーじゃない感じ。
だいぶ歪んでる気がしますね。

「フツーの性癖」ってなんでしょうね。自分ありきで男女妄想するなら「フツー」なんでしょうか。男女であれば、たとえば「愛している男性の肉を食べたい女性」「女性を拉致監禁して嬲り殺す妄想が好きな男性」「血の繋がった兄とセックスしたい女性」などは全部「フツー」だが、男性同士の恋愛を女性が妄想するのは「フツー」じゃない、と。渋谷の駅前でデモしてる人たちみたいな発言ですね。

そんな妄想しているヒマがあるなら、ちゃんと男女の恋愛をしてほしいですよ。

なんでBL妄想と男女の恋愛が排他的な関係にあると決めつけてるんでしょう。彼氏や夫がいる腐女子なんて珍しくないですよ。
それと、この論理だと腐女子内にいる同性愛者や無性愛者にも男女恋愛を勧めていることになりますが、余計なお世話すぎて失礼極まりないです。

きっと汚い現実から逃れるための世界なんでしょ。美化された世界にいたいんでしょうね。

妄想だからね。「うちの庭から石油が出ないかなあ」とか、「優しかった死んだおばあちゃんがそばにいてくれたらなあ」とか、妄想は美化されていて現実にはありえないものが大半ですね。

ただ、”腐”を用いている時点で、自嘲的というかネガティブな認識はあるんですよね。それならOK! そこをしっかり認識しておきなさい!

やんごとなき坂上様からそのようなお言葉を賜る幸せ、恐れ多いこと限りなくうんぬん(以下略)
腐女子腐女子と名乗るのは自虐だけど、それが自虐として通じるためには「同性愛妄想することは腐っている」という差別的思考と関係がないとは言えない、と思いますけどね。ただし外野から「お前らは腐ってるんだからしっかり自覚しろ」とか言って蔑視を正当化されるための名称じゃないことは確かです。

続いて、土田さんの回答から。

なんで男同士の恋愛まで妄想するに至るのかが、まったく分からないですね。”男女”でいいじゃないの。せめて自分を主人公にした恋愛妄想のほうが、よっぽど健全ですよ。

上の坂上さんへのツッコミと同じですが、「自分を主人公にした」「男女」の恋愛妄想なら「健全」、という価値観はこの手の腐女子批判には頻出しますね。二次元キャラやアイドル好きは否定していないことから、男性オタクが女性キャラと恋愛妄想したり、女性オタクが男性芸能人との恋愛妄想する場合はこの論理だと否定されない、ってところもポイントだと思います。ガンダムオタク芸人としての土田さんのファン層を考えれば、ガンダム好きな男性オタクや芸人ファンの女性は逃したくないですよね。自分のファン層に多く含まれそうなオタクがする妄想を「健全」と呼び、それ以外を「健全じゃない」と規定する、一種のファンサービス的な発言かもしれないですね。安い媚びだなあと思いますが。

きっと、完全に現実逃避な人たちなんでしょうねぇ。
この世界に籠城しちゃう前に、生身の彼氏を作ってくれ

たとえば萩尾望都先生は一度もご結婚されたことなくずっと独身でいらっしゃいますが、土田さんは萩尾先生にお会いしても同じことを言うんでしょうか。お前の人生でなしたことは完全に現実逃避だから、早く生身の彼氏を作れ、と。日本の漫画史において、萩尾先生はじめ24年組の先生方が形作ってきた少年愛作品の功績は数え切れないものがありますが、それよりも「生身の彼氏」が大事だというのでしょうか。
萩尾先生のお父様は生前、先生の仕事を「お絵描き教室」と認識し、そんなお遊びは辞めて早く結婚しろと言い続けて先生を苦しめた*2ということですが、土田さんの発言はこのお父様と似通ったもののように読めます。
まさか、職業としてやっているBL作家ならよくて、趣味でやってる腐女子はダメとは言いませんよね。文中では分けて語っていないのだから、ここで言う腐女子には萩尾先生も竹宮先生も山岸先生もよしながふみ先生も羽海野チカ先生も、もちろん含まれます。BL妄想を男女恋愛の「代わり」「妥協の結果」のように言うのは、こういった先生方の仕事も同じようにバカにしている。

 

まとめ

とりあえずツッコミはこんなところです。この「腐女子」が「オタク」、「男性同士の恋愛妄想」が「二次元キャラ・アイドルとの恋愛妄想」だったとしたら、猛烈な批判が出ていて当然の内容だと思います。ところが現実には少なくない層が「でもやっぱり男同士で恋愛させるのってキモいよ」と同意してしまうんですよね。男同士なのが問題であり、男女なら問題ないというなら、それはホモフォビアと見なされても仕方ないと思います。

私が一番がっかりするのは、これがananという女性向け雑誌に載ったという事実です。男性芸能人の発言を借りてきて腐女子をバッシングする女性誌って構図なんですよ。当然、anan読者にも腐女子がいないわけないのですが、お金を出して読んでいても腐女子は読者層として認めないって宣言なのでしょうか。メイク雑誌のVOCE執事喫茶を盗撮して炎上したことがありましたが、男性の権威を借りているように見える点で、このananはより悪質とも言える。

最後に、この件で「やっぱり腐女子が自重しなくなって大騒ぎするようになったから、こういう批判も当然では……」みたいな反応をしている男性や女性を見かけましたが、このananみたいな偏見による腐女子批判と自重はなにも関係ありません。「男性同士の恋愛妄想を好む」という個人の内心を指差して笑うような人たちが、実際に腐女子が自重しているかいないかなんて気にするわけがない。繰り返すけど、個人の内心が笑われてるんですよ。自重するしないなんて、批判する側は気にもしてない。関係ないものを無理やり関連づけて自重マナー強要する自分勝手な人たちが出ないことを祈ります。

 

それにしてもanan、抱かれたい男ランキングとか男性アイドルのグラビア号とか、買い支えてるのは腐女子も多く含まれるオタク女性層だと思うんだけどなあ。

*1:男性向けだと「美少女」という言葉が実際の美醜とは違った位相でカテゴリー化されてる気もしますが。

*2:http://korobomemo.blog110.fc2.com/blog-entry-105.html

「腐女子の同調圧力」というステレオタイプ

お詫びについて - 今日も得る物なしZ

上記のエントリでid:kyoumoeさんが以下のように書いておられました。

腐女子腐女子の同人誌の販売を取りやめさせたって話についてそれはおかしいっていってるだけで。
腐女子以外でディズニーへの過剰反応によって他者の権利が奪われた事例というのを確認できてないので言及してないだけで。

もし知ってる人がいたら教えて下さい、他人の権利侵害するレベルで活動してる人。
んで、それがもしあったとしても「腐女子が潰した」という事例はあることに変わりはないんですよ。

「知ってる人がいたら教えて下さい」の部分とは少しズレますが、ディズニー同人誌回収強要騒動の時に調べたことを自分が分かる範囲で書きます。結論から言うと、「この騒動で回収強要させた人間が腐女子かどうか確認できるソースは見つからない」です。私が見つけていないだけで確実に腐女子である、というソースがあるかもしれません。ただし、これを「腐女子による同調圧力」と断じる根拠は少なくとも私は持っていません。

そのため、きょうもえさんがソースを持っていない段階でこれを「腐女子が潰した」と断言するのは現時点では間違いだと思います。

※知らない方のために念のため、ディズニー同人誌回収強要騒動とはタイバニジャンルの方がベイマックスとのダブルパロディ同人誌をイベントで頒布したところ、pixivにて批判を受け、回収と返金を行った、という事件です。

 

オタクの同調圧力と異常なまでのディズニー畏怖 - 今日も得る物なしZ

上記のきょうもえさんのエントリには、

おそらくこのコメントを書いた人物はタイバニのファンなんだろうが

ここまでで起きた問題、全てがオタク、というか腐女子が勝手に主張している自主規制による同調圧力での悲劇としか言いようが無いのよね。

といった記述がありますが、問題のpixivページにて「「お叱り」が来る前に事態を収める行動をとるべき」などとコメントをしてる人の素性がどういうものか分からない時点で「オタク、というか腐女子が勝手に主張している自主規制による同調圧力」と断じる理由は何でしょう。
私もこのコメント主について調べようと思ったんですが情報がまったくないので(pixivのプロフィールには閲覧専用ですみたいなことが書いてあるだけ、フォロー先もなし)この人がオタクなのか腐女子なのかすら分からない。
「ジャンルを潰す気としか思えない」というコメント主の発言からいかにも当該ジャンルに愛着を持っている者の発言に読めるが、こういう言い回しで脅迫するやり方が有効そうだ、という知識さえあれば誰でも書ける。
荒らしのような愉快犯や、何らかの嫉妬や私怨による攻撃という可能性は捨てきれない。

たぶん騒動自体の発端はウォッチ板かなと思いますが、ていうか同人系の変な話題全部あそこが出処な気が。だとしても所詮は匿名の場であり、これをもって突撃したのが腐女子と断言するほどの証拠にはならない。
そもそもイベントで普通に頒布してた現実がある。腐女子全体にそこまで異常な同調圧力があるなら、なぜ現場で騒ぎにならなかったのか。

「他人の権利侵害するレベルで活動してる人」は確かに存在したが、それを「「腐女子が潰した」という事例はあることに変わりはない」と言い切る根拠はないはずです。腐女子による同調圧力である可能性ももちろんあるが、断定できない。
kyoumoeさんに限らず、togetterまとめにあるGeorge.Tさんも「同調圧力案件」と書いてますが、「腐女子腐女子を攻撃した」という意味でそう書いているなら、やはり思い込みによる決めつけだと思う。 (※2/12 George.Tさんに関する記述について当エントリの最後に追記しました。)

同調圧力がない、とは思いません*1。私も経験したし。でもそれは決して腐女子内部だけの話ではない。
同調圧力を批判したいなら、どういった圧力が行われているか実態に即して批判するべきです。実態把握をおざなりにするならid:natukusaさんが指摘するとおり切断処理にしかならないし、それによる多大な弊害があると思います。

 

腐女子同調圧力だ」というステレオタイプの弊害

怖いのは、実際そうなのか確証もないのに「あれもこれも腐女子同調圧力だ」ということにされると、圧力やめよう派にとって有害でしかないことです。
ディズニーの都市伝説が腐女子だけでない一般層まで広く蔓延しているのはきょうもえさんもお書きになっているとおりですが、「それによって同輩に圧力かけるのは腐女子くらいだ」というイメージにまでなると、裏を返せば「腐女子には腐女子の掟があるから圧力をかけることもやむなし」という強制派の開き直りにつながりはしないか。
あと仮に今回のコメント主が愉快犯や荒らしだったら、このステレオタイプはとても便利に使える、ってことは注意したほうがいいと思う。過剰反応だと思われるでしょうが、アンチ腐女子の人間が、腐女子は自粛すべき、という「マナー」を装った腐女子叩きを続けている現実があります。


アンチ腐女子を煽動するアフィブロガーと、ゴキ腐リの提唱者「罵詈」 - hompig


ゴキ腐リ問題界隈で妄想が悪化している模様 - hompig

当然ながら、マナー啓蒙を装ったアンチ腐女子は一人や二人ではないでしょう。マナーと称した自重圧力が「同調圧力」であるかどうか、確実に検証するのは特にネット上ではかなり難しいです。内部だろうと外部だろうと圧力を批判すればいいので、わざわざ同調圧力だけを別物として叩く必要はないはずです。

個人的にはこのディズニー同人誌回収強要の件、腐女子が都市伝説を真に受けて同調圧力をかけたというより、都市伝説だと知った上で悪意を持って「腐女子同調圧力をかける」というステレオタイプを利用した例じゃないか、という気がする。実態は同調圧力というより粘着・個人攻撃の類かもしれない。
悲しいのは当の腐女子すらこのステレオタイプから自由ではなく、外部からは「腐女子界隈はビビリすぎ、変な風習多すぎ」などと切断処理されること。そうやって醸成されるのは「腐女子ってキモいよね」という雑な偏見と、「同調圧力ってそんなに酷いんだ、やっぱり隠れなきゃ」みたいな見当違いの「配慮」じゃないのかなあ。

「は? 何に追い込まれたの?」という疑問について、前回のエントリ最後で書いた「マナー強制する人たちがなぜ強制したがるのか」の背景につながる話ですが、このエントリ内で書いた騒動の発端の部分とか腐女子叩きの実態を考えていただければ多少はご理解いただけるかと思います。

 

2/12追記
id:natukusaさんより、記事中のGeorge.Tさんに関する記述について補足説明がありました。George.Tさんはまとめられた後、この問題は腐女子だけに限るものではない、特定層へのラベリングとしてはならない、という旨の発言をなさっておられます。詳細はnatukusaさんのエントリにて。George.Tさんに対する間違った印象を与えかねなかったことをお詫びします。natukusaさん、ご指摘ありがとうございました。

*1:ただしトレスやパクリや金銭詐欺とか以外で回収&返金騒ぎになるのは今まであったかなあ?たとえ同調圧力であっても、「特定ジャンルを描いた」という理由だけで回収にまでなるのは他に類例がないような。それもあって、今回の件を腐女子によくある事例みたいに語るのは違和感あるのです。

ノマカプ表記について・その2

id:kyoumoeさんが前回のブコメで「その背景とか現状認識とやらをだーれも教えてくれない」ってお書きになってたので、私の知るかぎりで今回の論争の背景を説明してみます。

今回の発端は、pixiv百科事典にある「刀剣乱腐」の項目だと思います。

刀剣乱腐 (とうけんらんぶ)とは【ピクシブ百科事典】


この中に、「タグ付けにおける注意事項 」として

一般向けの投稿作品との差別化を明確にするため、また腐向けを好まないユーザーの目に入らないよう配慮するために「刀剣乱舞」タグは付けず、「刀剣乱腐」タグのみを付けて棲み分けをするようにしましょう。

(強調部分は原文ママ
との表現があり、その下で具体例として「刀剣乱腐」タグを「◎」、「刀剣乱舞」タグを「×」としています。

この部分を画像化したものをあるTwitterユーザーの方(女性で刀剣乱舞好きだけど刀剣乱舞でBL萌えはしていない人、らしい)がTwitterにて投下。その時の文面が

せっかくこんなにはっきりと明記されてるのだから、【刀剣乱腐】と【刀剣乱舞】タグを一緒につけることはご遠慮ください。

だったために大荒れとなった……ということのようです。*1あくまで私が調べたかぎりなので、その他の要因があった可能性もありますが。

これがなぜ「ノーマルカップリング」呼称問題につながったのか。まず、上記のツイートに反発した層が問題視したのは以下の二つの点だと思います。

  1. 公式な作品名と違うタグを広める行為は検索妨害になる
  2. 「腐」=男×男カップリングだけがマナーを強いられるのはおかしい

上記の二つ目、腐向けだけが「マナー」と称して「棲み分けをするように」「ご遠慮ください」と言われることへの反発が、「じゃあ男女カップリングならいいの?」という論争に発展したのだと思います。該当ツイートやそれに同意した人たちのツイートやプロフィール欄に「ホモ」「NL」という言葉が使われていたため、その認識も含めて問題視されたのです。

今回のことは、ノーマルカップリングという表記の是非というよりは腐女子だけに向けられる一方的なマナー強制の是非、またそのマナーに内在する差別意識への反発、ということになると思います。
一応言っておくと、「刀剣乱腐」などの腐向け限定隔離タグが検索妨害になり、腐向け好きな人にも嫌いな人にも百害あって一利なし、という点も大勢の人が指摘してますよ。ノーマルどうたらということだけが問題になっているのではない。

まとめると、

pixiv百科事典で「刀剣乱腐」タグを使いましょうという項目ができる

これに同意したユーザーがTwitterで拡散

腐向け隔離タグを疑問視する層が反発

そもそも男女カプを「NL」と呼ぶような意識が問題なのだ、という方向へ

……という流れのはずです。
きょうもえさんは4番目の「NL表記への反発」の部分のみを取り上げて、言葉狩りだ、内ゲバだ、同調圧力だ、と書いているように読めるのですが違いますか?
作品名タグを使えば腐向け二次創作が好きな人も嫌いな人も便利なのに、「一般向けとの差別化」「嫌いな人への配慮」として特殊な隔離タグを使おうと呼びかけることは「同調圧力」にならないのでしょうか。
百科事典の表現を見るかぎり、腐向けだけに特殊なタグを使え、というこうした主張が「腐向け=一般的ではない」という認識の上に立っているのはわかると思います。そして今までずっと、こういう認識の人たちの多くが「腐向けは一般向けじゃないから隔離しろ、隠れろ」と主張し続けてきたのです。主張の主は腐女子内にも、腐女子外にもいます。
私が前回のエントリで書いた「背景」「構造」というのはそういうことです。同性愛を扱う作品は隔離されるべきだ、と考える人たちによるマナー強制が過去にも現在にもある、ということです。*2

 

あとこれは私の記事に対してでしょうか?私は「ノマカプ表記やめろって言ってる人見たことない」などとは一言も書いてないですよ。ていうか「『ノーマルと言うのはやめよう』と主張する層」って何度も書いてます。
他のツイートも読むと、そもそもきょうもえさんは「腐女子」という言葉の定義からして私と違うようにも思えるのですが、そうなると最初に定義を示してもらえないと話すのは難しいですね。私だけでなく、ほとんどの人は「腐女子=男同士の恋愛妄想を楽しむ人」という定義のはずなので、たとえば男女カプ好きとか(男男、男女、女女問わず)カプ妄想する人まで含めて腐女子とされるなら最初に書いておいてほしいです。

私がこうしていちいち反応するのは、pixiv百科事典やニコニコ大百科、同人用語の基礎知識などの偏向した記述を見て、それをマナーなんだと思い込む若い人、同人に不慣れな人が後を絶たないからです。今回pixiv百科事典をTwitterで宣伝した人もたぶんそうではないかな。
そして前回書いたとおり、「NLという表記は問題があるよ」と指摘する層はこうしたマナー強制にも反発する層なのに、きょうもえさんのエントリでは同一視され「腐女子同調圧力」とされてしまうのですね。なので面倒に思われるだろうけど「それは違うよ」と指摘しないと、結局は「腐女子って馬鹿でキモい集団」という偏見を強化することになりかねないのです。
マナー強制する人たちがなぜ強制したがるのか、も私が問題視する「背景」「構造」に含まれるのですが、そこまで説明するとすごく長くなりそうなので、また後で。はてな内だとid:natukusaさんが下記で端的に語っておられます(ただ、これだと門外漢の人には理解不能かもしれない)。
http://h.hatena.ne.jp/natukusa/316618742464920093

*1:当該ツイートは削除済み

*2:腐女子は隠れろ」と強制する人の主張は「同性愛だから」以外にもたくさんあります(例:「エロだから」「二次創作だから」)が、ここではおいておきます。

ノマカプ表記について

ノーマルカップリングという呼び方は差別的だとする腐女子の考え方がわからない - 今日も得る物なしZ

コメントしようと思ったけど長すぎたのでブログ書きました。

まず一つ、「同人用語の基礎知識」は腐女子関連、女子オタ関連は特に適当というか事実誤認が多いです。腐女子と乙女を混同しているように読める記事内容などもそうです。Wikipediaのように複数が編集できるサイトではなく、運営者自身もその方面に詳しくないと言っているので、腐女子や女オタ関連の話題であのサイトを参照するのはあまりおすすめできません。

ここから本題になります。
「同性愛は不快だから自重しろ、隠れろ」と強制する層と、「ノーマルと言うのはやめよう」と主張する層は別だと思います。なぜなら男女カプにノーマルという表記をする層は「同性愛をノーマルでない」と考えがちな層と親和的であり、ノーマルじゃないから隠れよう→お前も隠れろ、と発展していきやすいからです。
そして私の知るかぎり、ノーマル表記やめよう派は前者の隠れろ圧力に否定的な場合が多いです。同性愛だからという理由で隠れるのはおかしい、という認識があるためです。そして呼びかけが強制のニュアンスを伴うことに非常に敏感だし、たとえばノマカプ、NLなどと表記した人を叩いて回るというような非常識な行動にまで出ることは少ないはずです。
もちろんどこにでもおかしな人はいるので、「半強制的」にノマカプ表記をやめさせようとする事例がないとは断言しません。また、個人的な経験から語っているため私の印象論にすぎないかもしれません。

そもそも、きょうもえさんが問題視しているのが「ノーマルという語を使う(使わない)こと」そのものではなく「腐女子同調圧力」であるとしたら、「ノーマルという言葉を使うな」と他人に強制している腐女子がいる現場を取り上げて論じなければならないのではないですか?

たとえば男同士のカプをホモと呼称することの是非は腐女子間で長らく議論があり、ホモォ…というネタが流行った時も問題視する腐女子は大勢いました。一方であのネタがいまだに使われていることから分かるとおり、構わず(またはそのような論争があることを知らず)使用する腐女子もいます。ホモを使い続ける理由も各自それぞれのようです。
議論になっているということは、ホモという言葉を使いたい人も使うべきでないと思う人も両方それなりにいる、ということです。そして、「ホモと言え」「ホモと言うな」という強制が行われないかぎり、議論の一部だけを見て同調圧力だ、とまでは言えないのでは。

同調圧力がないとは思わないし、それを問題視して議論になることは有益だと思います。ただ、きょうもえさんのエントリは何をもって同調圧力とするか、という部分で的を外している気がします。現状認識がずれています。
冒頭で指摘した

「同性愛は不快だから自重しろ、隠れろ」と強制する層と、「ノーマルと言うのはやめよう」と主張する層は別

という点も、「なぜそのような強制が行われるのか」という背景に目を向けていれば、同一層が主張していると誤解することはそもそも避けられたのではないか、と思うのです。

もうずいぶん前ですが801板で伏字論争というのがあって、その結論は「伏字をするもしないも自由。ただし他人に強制しない」でした。強制が悪なのは浸透してます。でも強制させがちな構造があるんです。そうした背景構造まで含めて語らないと「腐女子はいつも変なことをしている」「これだから腐女子は」的な偏見を助長するかもしれない。

たとえば「異性愛をノーマルと呼ぶのは差別的である」という認識は、きょうもえさんのエントリで示されているとおり腐女子だけが持っているものとは言えませんよね。該当のWikipediaページを編集しているのが全て腐女子だという確証がないかぎり。それなのに「腐女子の異常な立ち振舞い」と括られてしまう。そのような認識が浸透した背景構造は無視される。

実際、先日のディズニーの件では腐女子を異端視し笑い者にするブコメも散見されました。きょうもえさんが腐女子への敵視や蔑視をもとに一連のエントリを書いているとは私は思いません。ただ、結果的にあのようなブコメを誘発するエントリを書いてしまっているのが残念です。
強制が問題だと思うなら、強制に反対している腐女子の意見も聞いてみてもらえればと思います。