被害者が守られるべきなのは、彼らが「善人だから」ではない

 

いわゆる「被害者ポジションの奪い合い」がなぜ生まれるか、過剰なまでの加害者バッシングの心理、そこから抜け出すには、などの話です。

 

被害者は善人じゃないし、その必要もない

痛ましい事件や事故が起こった時、被害者になった方々の人生をやけに美化する報道がなされることがあります。親思いのいい子だった、夢に向かって真面目に頑張る勤労青年だった、休日に家族サービスをする優しいお父さんだった、などなど。
こうした報道の執拗さは一般的にプライバシーの侵害として非難されることが多いんですが、もう一つ大きな問題があります。それは、被害者を被害にあったというそれだけの理由で「善」と規定していること。
「被害者を聖人君子のように報じるけど、仮に彼らが悪人だったら?」
「そんな奴なら被害にあっても仕方ない、と言われるのか?」
みたいな疑問が湧いてきます。
被害者を規定するのは「被害にあった」という要因それのみであって、そこに善とか悪とかの価値判断を入れる必要は本来ありません。

 

なぜこうした価値判断が生まれるのかというと、被害者に対置される加害者は明確に「悪」であるからです。そして善悪とは相対的にしか成立しえないものなので、悪があるからには善が必要になり、加害者に対置する被害者を善とみなすのです。
加害者の悪に対して被害者は相対的には善でしょう。ただ、それなら被害にあった人以外のまったく無関係な人まで「加害者と比べれば善」ということが言えてしまうわけで、この善人判断はほとんど意味がないわけです。
加害者を悪と規定するのは彼らを法律で裁くためです。そして法は道徳の最小限と言われるように、法律の規定する悪はいわば「これとこれは悪です。その他は法律では裁きませんよ」ということになっている。「これとこれは善です」ということを規定する法律はないのです。

 

その代わりに、社会通念上の道徳律とかマナーなどがありまして、法律では裁けないけどこういうことを言ったりやったりするほうが(社会が健全に機能するためには)いいよね、みたいな基準になっています。*1人の顔を見て鼻で笑う、というのは一般的にはマナー違反=道徳的悪でありやらないほうがいいことですが、笑われた人が善ということにはなりません。チャリティに寄付するのは社会通念上の善行ですが、寄付しない人が悪人だということではない。

 

つまり、善悪というのは相対的にしか成立しえないものだけれど、ひとつの状況において常に一対一で善と悪が成立する、というわけではない。そして加害と被害の関係において、加害者は悪と規定され得るけれど、それは被害者が善と規定されることを意味しないのです。
事件や事故の被害者をことさらに善人視するのは、加害者と被害者という対比構造に、善悪という別の対比構造を無理やりくっつけたことによる錯誤です。

 

被害者は法律的に、あるいは道徳的に正しかったから被害を受けたわけではないし、被害を受けたことによって正しくなったわけでもありません。
被害者は善人だから守られ、ケアされるべきなのではなく、被害を受けたというそれだけの理由でこそ守られ、慰められ、労わられるべきなのです。被害者に対する善悪の価値判断など必要なく、被害を受けた人はその被害を癒すために保護されるべきなんです。

 

いわゆる「被害者ポジションの奪い合い」が生じるのは、この錯誤を意識的にか無意識にか内面化している人がいるからです。被害者にさえなればそれがすなわち善(ほとんど「絶対善」ともいうべき)ポジションを獲得できることになるので、「自分はこんな被害を受けた!」「自分はかわいそうな被害者だ!」と叫んで優位につこうとする。
俺は私は被害者だから優しくすべき!という段階ならまだ、蒙った被害に応じたケアを受け取れたほうがそりゃいいよね、と個人的には思いますが、厄介なのはここに善悪判断が合わさって「俺は私は被害者であり、ゆえに善なのだから、お前らは悪だ」と他人を断罪し始める場合です。言ってることが無茶苦茶。

 

では、明確に悪である加害者への非難なら際限なく行ってもよいか。

 

公正世界信念による加害者への過剰なバッシング

最近こんなまとめがありました。

togetter.com

公正世界信念はざっくり言えば「世界で起こることは因果応報であるべき」「善人には幸福が、悪人には不幸があるべき」みたいな信念のこと。
これは主に被害者バッシング批判の文脈で持ち出されることが多い用語なのですが、最近ちょっと違った角度から研究した論文が出てたみたいなので、そちらから少し引用します。

被害者非難と加害者の非人間化――2種類の公正世界信念との関連――

内在的公正世界信念の強さは,加害者への厳罰指向につながっていた。一方,被害者非難とは関連が見られなかった

公正世界信念の強さは,加害に至る理由が説明不可能で,被害者の被害の回復も望めない場合,加害者の悪魔化(demonize)や患者化(patientize)といった非人間化(dehumanizing)による信念維持方略につながる

内在的公正世界信念の強さが加害者の非人間化につながり,その結果として厳罰指向が強くなる

 詳しくは論文を読んでほしいのですが、この研究では「加害者が特定されている場合、内在的公正世界信念*2が強い被験者は、事件の加害者に対する厳罰を望む傾向が強い」という結果が出ています。一方、よく言われる被害者バッシング(被害者にも落ち度があったのだとか言って被害者を責める傾向)との相関は見られなかったとのこと。
加害者が特定される場合、つまり犯罪とか事故とかですね(実験では架空の新聞記事が報じる傷害事件を用いています)。公正世界信念が取り沙汰される場面と言えば日本だと311の震災などでしょうか。天災とか、非難すべき加害者がいない場合に被害者バッシングに向かう心理として研究されてきたみたいなのですが、この研究ではその心理が特定された加害者への厳罰指向にも関連があると結論付けています。
そして、そのような厳罰指向が生まれる前段階として、加害者の「非人間化」が行われる。自分とはまったく違う悪魔のような生き物だと言ったり、重篤な病気を患った人間なのだと言ったりして、自分とは無関係な存在とみなすということですね。

 

加害者は刑法上の悪ですが、べつに悪魔ではないですよね。病人である場合はあるが、加害者の素性を知らないまま病人だと決めつける必要はない。
「加害者は自分とはまったく違う悪人であるべき」「悪人は厳罰に処すべき」「加害者が特定できないなら被害者に落ち度があるべき」「世界の善悪は公正であるべき」といった信念は、つまり「自分にとって受け入れがたい状況があったとき、何かをバッシングする理由を作り出す」ために生まれるんじゃないのかなーと読んでて思いました。

 

被害者にも落ち度があったのだ、などと指摘するのは、まあ不必要な態度だろうと思います。言ってるほうは「なんか有益なアドバイスしてやろう」とか思ってるのかもしれませんが、誰も頼んでません。ましてや被害にあったことを理由に貶したり、辱めたり、見下したりするのは許されることではない。さっきも書いたとおりそれは被害者が善だからではなく、被害にあい苦しんでいる人だからです。

 

ただし、ここで「被害の元凶たる加害者許すまじ。市中引き回しの上打首獄門じゃ」みたいなことを言い出す人もまた、信念としては同じものを抱えてしまっている、というのが興味深い。いじめ事件の加害者への過剰なネットリンチとかもそうですが、悪とみなした相手には何をしてもいいなんてことはない。犯罪であれば司法に則った罰なり療育が与えられるべきだし、犯罪ではない、たとえばネット上でおバカなこと言ったりやったりした人に対して、過剰で執拗なバッシングを続けるっていうのも、私は見てていい気分はしません。やめなよー、と思います。あなたのやってるそれ、正義のつもりかもしれないけど、心理学では被害者叩きと同じ構造らしいよ?とか言ってやりたくなります。

 

適切な批判は必要なことです。でもそれが行き過ぎる場合、間違った信念に基づいた行為として、それ自体もまた批判されるべきだろうと思います。

 

断罪するより他にできること、したいこと

結局、被害者をことさらに善と規定せず、過剰な加害者叩きにも陥らず、加害と被害に向き合うためにはどうすればいいか。
加害・被害の当事者である場合は別として、ここでは第三者の立場である場面を想定して書きますが、悪への適切な批判以外でできるのは、結局は被害者の気持ちに寄り添うことではないでしょうか。

 

というか、私は凡俗なのでそれくらいしかできない。空から一億円降ってこないかなー、みたいなことをいつも考えている凡俗ですので、なにが善であるとか悪であるとか決めることはなかなかできません。
ひたすら単純に、「この意見は同意できるな」とか「この人はなんかやな感じだな」とかいう好き嫌いを発展させた共感・同情の姿勢。論理的な意見は尊重するけど、言ってる人がなんかやな感じだった場合は共感せず「ふーん、まあ情報だけ受け取っとくわ」とか感じ悪い態度をとります(心の中で)。
相手が間違っているなら正せばいい。共感できなければ離れればいい。誰かの行動のせいで傷つく別の誰かがいるなら、なるべく早く後者の元へ行って避難させたい。それもせず真っ先にお前は悪だ極悪人だーと断罪する必要を感じないし、そんな権利が自分にあるとも思ってない。まあ、バーカアーホくらいは言うけど。

 

ただ、傷ついている人がいた時に、できるだけ寄り添っていたい。寄り添うと言うとなんか物理的に密着するようでキモいですが、気持ち的なことです。傷ついた人が傷ついたこと、傷つけられたことが不当であるか、善であるか悪であるのかというより前に、そのような気持ちになったことは残念だ、悲しい、つらいだろう、と言える人間でありたい。
傷ついた人が善人だから同情したり慰めるのではなく、傷ついているからという理由で労りたいです。仮に万が一、傷ついた人が悪人であり、加害者であり、他の誰かを傷つけていたとしても、私は私の好き嫌いによって同情・共感を寄せるかどうか決めるだろうと思う。その上で、必要があれば適切な批判を加える理性も持ち合わせていたい。
そうしないと私がつらいので。傷ついている人を見てると、なんかつらいので。自己中心的な理由で、私は他人を労りたいのです。

 

そんなふうなことを、下記の記事を読んで考えました。

yarukimedesu.hatenablog.com

 

父親とお風呂に入ったことがトラウマになってしまったなら苦しいだろうし、なんか分かんないけど誤解されたら、それもまた苦しいだろう。
善か悪かは知らないけれど、傷ついたのなら、つらいよね。

*1:道徳やマナーの他に宗教の教義という倫理規定もありますが、これはもっと原始的に善悪を規定するもので、法律や社会的マナーに先立つ礎になっている。

*2:上記論文より。「内在的公正世界信念(Belief in Immanent Justice: BIJ)は,ある出来事(特に負の結果)が起こった原因を,過去の行い(負の投入)によるものと信じる傾向である。得られた結果には正義が内在すると考え(Hafer&Begue, 2005),幼児期からの満足の遅延に関する学習や,報酬・罰の経験を通して形成,強化される(Bennett, 2008)。」