鶉まどかさんの「岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私」を読みました

鶉まどかさんの「岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私 サークルクラッシャーの恋愛論」を買いました。読みました。

www.amazon.co.jp

サークルクラッシャーという経験を語って一躍人気ブロガーになった鶉まどかさんが語る現代の”歪んだ恋愛市場”*1という触れ込み。鶉さんのブログは全て読んでいたのですが、本という形のほうが個人的には読みやすくてよかったです。ブログでは体験談とその分析記事が多いのですが、本ではそこからさらに対象を広げて、社会全体のあり方を論じています。ブログで読んだエピソードはほとんど一字一句違えずにそのまま収録されているのですが、やはりブログの時点できちんと計算して書かれていたのだなあ。構成がうまいです。各エピソードがブツ切りにならず、論の流れに無理なくはまっています。読みやすい。ちなみに岡田斗司夫についてはタイトルと序章、あとがきに類似例として言及されるだけで、あの騒動に著者が関わっていたとかではありません。

さて、鶉さんが2014年9月に本格的にブログを始めてから、私は全ての記事に目を通してました。でも、よい読者とは言えなかったと思います。サークラという行為で他人の心を弄んでいた人に対する反発心と嫌悪感があったのですね。先日出たインタビュー記事につけたブコメで、私はとんだ間違いをやらかしてしまいました。

岡田斗司夫愛人事件とサークルクラッシャーは社会全体の問題である - エキレビ!(1/5)

ブログで何度も思ったけど、この人は自省が足りてない。「で、なんでサークラになったの?」とブコメでいくら問われても決して答えずに非モテ男性向けの恋愛テクとか書くし。社会の問題より先に自分の問題でしょ。

2015/08/18 17:51

b.hatena.ne.jp

このブコメ、「なぜサークラになったかという問いに答えようとしない」って書いてるんですが、ブログに思いっきりエントリありました。

「なぜ」わたしはサークラになったのか:動機編 - あの子のことも嫌いです

しかも私これ読んでたのに(本読んでて思い出した)、なぜあんなブコメを……。これは完全に私の勘違いなので、ほんとにごめんなさい。たぶん読んではいたけど、あまり身を入れて、信用して読んではいなかったんですね。失礼な話ですが。顔出しされてるツイッターもまだ連携されてなかったので、これどこまで本当なの?増田でよくある創作実話っぽい感じ?とか思ってました。謹んでお詫びします。

このブコメは当社比で口調がきついんですが、これは苛立っていたからです。ブログでも本でも、鶉さんの論には頷けるところが多々ある反面、「あなたがそれをそう語るの?それでいいの?」っていう反発意識がどうしても消えなかった。本を読んでも、そこは解決できませんでした。苛立ちの原因を考えてみた結果、なんだかいろんなことがまとまってきた気がしたので書いてみます。残念ながら本のレビューにはなっていないと思います。あと、長いです。

一人一人に向き合っていない、ように読める

サークルがクラッシュする、という現象を成立させるためには、クラッシュする側(故意または無意識)、そしてクラッシュされる側(複数)が必要であり、そのどちらが欠けても起こり得ない。その意味で、クラッシュされる側の男性たちにも原因があるのは確かだと思います。鶉さんは彼らを責めているわけではない。むしろ感情的な非難を排除して、きわめて冷静に観察し、分析している。

私がどうしても乗れなかったのは、そこだと思う。たしかに「クラッシャられ」と呼ばれる男性たちのような人はいる。女性にもまま見かける。彼らを総体として語ることで見えてくる現代社会の問題点もある。でも、鶉さんが意図して近づき、自分を好きになるよう仕向け、告白させた男性たち一人一人は決して「総体」ではない。サークラ当時は「相手を等身大の存在として認めない*2」ような心理状態だったとしても、今なお分析対象として、感情を交えずに語られる「総体の一部」としての男性たちは、やっぱりかわいそうだと私は感じてしまう。

謝罪すべきとか懺悔すべきとか言ってるのではない。そんな湿っぽい文章、私なら読みたくない。私の倫理観なんてその程度だし、過去のサークラ行為を永遠に断罪されるべきなんて思わない。ただ、私は怖いのだ。意図して他人を傷つけていた自覚のある人が、傷つけた個人に対してどう向き合っているのかが見えないから。

鶉さんは、彼ら一人一人に対してどう思っているんだろう。彼らの至らなさを論理的に「分析」するより前に、どんな「感情」を彼らに持っているんだろう。

鶉さんが、サークラ時代に利用してしまった男性たちについて何も感じていないとは思わない。むしろ考えに考えて悩みまくっているからこそ書けなかったのかな、とも思う。不自然なまでに感情描写が欠落しているのも、割り切れないままいいかげんなことを書きたくないからなのかな、と。

鶉さんの文章において感情の描写が欠けているのは意図的だと思う。本で言えば感情が書かれているのは、思いを寄せていた男性がアイドルにハマって失恋した話、そして150万円を貢いだ彼氏の話。それから、一章を使って語られる鶉さんとお母様との関係の話(細かく言えばもう少しあるけど、文脈から読み取れる程度で直接的ではない)。

もちろん自分が恋をした相手や葛藤を抱えた家族の話だから、感情が動いて当然だ。それらの描写に共通しているのは非常に自罰的で、自己否定的な鶉さんの感情である。そして、自己完結してしまう。

その言葉を聞いて、わたしは情けなくなった。あれだけのお金を受け取っても飄々としている彼に対してではない。自分に対してだ。(中略)
お金を出していなければ心穏やかに過ごすことさえ出来ない自分が、情けなくて仕方なかった。*3

鶉さんはサークラ行為をしていた自分を責めるけれど、それは相手に向けた感情ではない。サークラで傷つけた相手に対してどう思っている(いた)のか、という部分はあえて語られず、統計データを用いた分析に移ってしまう。

だからこれは、論の内容ではなく、論の立て方を問題にしている。傷つけた彼らへの感情を書かず、当事者の立場にあって「クラッシャられ」と呼んで類型化してしまう論法を、私は受け入れられない。些細なことを気にしすぎと思われるかもしれない。でも鶉さんのブログの最新記事が炎上した理由も、結局は同じなんじゃないかと思う。

 

社会の問題?

あの記事で、特に炎上を誘ったのはこの部分かと思う。

責任の所在はどこにあるのか、と言えば、全てにある。女を自分のお遊びとしてしか考えていないオッさんたちにも、それについていってしまう女の子たちにも、そして彼女たちを救えない若い男性たちにも。

岡田斗司夫騒動にみる、愛人になった「彼女」とならなかった「私」 - あの子のことも嫌いです

この「彼女たちを救えない若い男性たちにも」という記述、これ自体は鶉さんがそれまでずっとブログで主張してきたことで、ここで言われてる「若い男性たち」というのは「(超受け身体質でリスクを取らず、でも恋愛の美味しいとこだけ欲しいとか甘いこと言ってサークラに引っかかっちゃうような)若い男性たち」のことですよね。決して若い男性全体を指して糾弾しているのではない。それはこの記事だけ読んでも文脈から容易に読み取れる。

ただし、鶉さん自身がサークラとしてそのような男性を積極的に傷つけてきた本人だ、という事実はやっぱり度外視できない。当事者はフラットな視点など持ち得ない、と私は思う。引っかかってしまった彼らのような人たちにはなるほどたくさんの問題点があって、それを指摘することが結局は彼らを「救う」 ことにつながるかもしれない。でも元サークラ本人がそれをする際にはもっと慎重な手腕が必要なのではないかなあ。その慎重さは端的には、私が先ほど書いたように彼ら一人一人への眼差しを可視化することであり、一方的ではあっても、というか一方的にしかなりようがないながらも、どのような感情を抱くのか鶉さん自身の言葉で語ることではないだろうか。

それを経ずに「若い男性たちにも」と書いてしまったり、統計データから世相を分析したり、岡田斗司夫を持ち出したりと拡大していく論法には私はついていけない。すごく大事なものを取りこぼしていると感じる。恋愛は個人的なものだから、体験から得た何がしかを社会全体に敷衍するのは難しいものだけど、だからこそ丁寧にやらないといけない。本にする際には個人の体験談にとどまらない社会分析が必要だったかもしれないけど(じゃないと新書として売れないしね)、すでにブログの段階で私が指摘した問題点はあった。あの炎上は、個人の体験談をきちんと消化しないまま社会分析につなげてしまったことが原因だと思う。同じことが本にも受け継がれてしまったのが残念。各論同意、総論に違和感というモヤモヤした読後感。

 

「傷つくこと」より「傷つけること」が怖い

個人の体験をきちんと消化する、とはどういうことか。

私なりに思うのは、「他人を傷つけることについてよく考える」ことじゃないかな、ということ。

本書ではクラッシュされた男性たちの特徴として「傷つくことを過剰に恐れる」という点が指摘されている。でも個人的に、ここ最近話題になっている若い男女の恋愛離れというのは、逆に「傷つけることを過剰に恐れる」ことも原因の一つじゃないだろうか、と思っている。

たとえば、以下のエントリで指摘されているように。

「男は〇〇だ」「男体持ちは〇〇だ」のように言われてしまうと、新妻君のように自分は気にしすぎてしまい自分の身体に対して居心地の悪さを感じてしまっているのだと思いました。

鳥飼茜さんの『先生の白い嘘』を読んで考えたこと。フェミ寄りの人のことが気になりつつも、どこか近づきがたさを感じてしまうことについて。 - 自意識をひっぱたきたい

早い段階で男性性欲の暴力性を認識し、自分の中の男性性欲を表に出ないように徹底的に抑圧しているのが草食系男子である。
この抑圧の過程の多くは男性本人にとっても無意識下に行われるのが厄介だ。

まずは男性が男性を救う責任がある

男性によって書かれたこれらのエントリで言われているのは、男性性欲に基づく対女性コミュニケーションが現代の若い男性においては無意識下に抑圧されてしまう、という現象。女性に関しては「待ちの姿勢がモテの秘訣」みたいな、ルールズ的なノウハウ(を騙った規範)はずっと昔から繰り返されてきた。こうした抑圧を内面下しているとまず自分の能動的な欲求を肯定できないし、結果として「愛されたい」という受け身な欲求だけが肥大してサークラ現象を引き起こしてしまう。

だから鶉さんの、「愛されたいと願うより愛することを大切にしよう」という提言は正しいとは思うんだけど、それでも元サークラの人がそれを言うのは、やっぱり怖い。危険だ、と感じてしまう。元サークラという立場でそれを言うなら、「傷つくことを恐れるな」と言うより先に、「傷つけることへの恐れにどう対処するか」を言わなければならないのではないだろうか。そして、サークラという行為を介しての関係性の場合、判断が極端に難しくなりそう、という問題もある。男性たちが傷つくことを恐れていたのか、傷つけることもまた恐れていたのか、あるいは単に鶉さんに興味なかっただけなのか。判断が難しいことを「傷つくのを恐れていたのだ」とまとめてしまうのは、少し乱暴ではないかなあ。

この記事内でサークラ行為にあった男性たちを鶉さんが「傷つけた」という表現を何度かしているけど、実際には恋愛において明確な加害者も被害者もいない場合のほうが多いと思う。DVや詐欺とかの例外を除いては。人間関係において傷つけ合うことは責任を引き受けるってことでもあり、関係を深める上で完全に回避はできない。だからどちらかだけを問題にするのではなく、傷つくこと、傷つけること、両方への考察が欲しかったなあと思いました。本書の結論部分で「傷つけ」ることにも言及はあるんだけど、掘り下げられてはいないので。

私は前掲のブコメで事実誤認で苛立ったバカなコメントをしてしまったことで、「ああ悪いことしちゃった。これは行動せねば」と思ってこの記事を書いているわけですが、これもまた、他人を傷つけたってことについて私なりに考え、リカバリできればと思っての行動です。リカバリできるかどうかは相手次第なので自分ではどうしようもないけれども。恋愛においても、好意はあるけど下手なことして相手を傷つけるのが怖いから踏み出せない→関係が終わりました、みたいな経験もあった(踏み出さないこともまた、相手を傷つけることになりうるっていうのが厄介だよね)。

 

 まとめ

長々と偉そうな文体で偉そうなブコメした言い訳を書いてきた感じになってしまいました。

ネット中心に長らく一方的な都市伝説みたいに語られてきたサークルクラッシュという現象について、当事者の視点から解説する鶉さんの論は斬新だし、とても鋭い。しばしば女叩きの文脈を伴うサークラ言説*4へのカウンターとしても意義があると思っています。

ただ、恋愛を語る際に当事者が感情を排して分析に徹する、という姿勢が私には合わないのだと思う。鶉さん自身もサークラ行為によって傷ついただろうに、なんだか無理をしてる気がする。社会全体に警鐘を鳴らしてみたり、恋愛相談に答えたりというのも、むしろメサイアコンプレックス的なものなのかな、と不安になる。そしてこうして勝手に「分析」するって失礼だよなあ、と、やっぱり「傷つけることへの恐れ」が克服できない問題に直面したりもする。

なんにせよ、ブコメするときはちゃんと事実確認して言葉に気をつけようと思いました。反省。

*1:コア新書のページより http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_015.html

*2:前掲書、p90

*3:前掲書、p173

*4:はてなキーワードサークルクラッシャーの項とかも論争があったみたいですね。そもそもオタク全体の男女比ってそんなに偏ってはいないはずなのに、あたかもオタク(っぽい集団)=男社会のような前提から語られることがおかしいんだけども。