自主性を尊重せずに「男らしさから解放されろ」とか都合よすぎ

アナ雪におけるクリストフが「業者」でしかないことについて不満を述べる男性3人の鼎談に対し、女性らしき増田が反論していくエントリ。

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ただ思うのは、脇役のクリストフこそ、「ありのままのおれ像」なのではないかということだ。(中略)
やはり男性も、「ありのままのおれ」になるときだ。「男らしさ」から解放されるときなのだ。(中略)
ヒーローになれない男性が救われるかどうかは、男性の意識の問題なのだと思う。

このエントリ最初のほうは鼎談の感想としてふむふむと読んでたんだけど、続く上記の主張は気持ち悪くてイライラした。はっきり言うけど、私この増田の口ぶり大嫌い。何この、自分に都合のいいようにレール敷いて「ほら、あなたのために敷いてあげたよ?自分で歩いてみよ?ねっ?」みたいな態度。これを男性が「我々」を主語として書くならむしろ好ましいと思う。でも多分この増田は女性だよね。

この文章の一番の矛盾は、

アナもエルサも自分たちの問題は自分たちで解決したいし、しなきゃいけない

と嘯きつつ、男性には上記のとおり「ヒーローになれない=「男らしさ」からの解放=ありのままのおれ」というルートを決めうちで押し付けている点。「男らしさ」から解放された男性がクリストフみたいになるかなんて分からないのに(トラバやブコメでは異論が多くある)、これぞ男性がなるべきありのままのおれなんですよ、と断言する不躾さ。そこにまったく自覚的じゃなさそうで本当にイライラする。それ単にあなたの性癖(誤用)ですよね。

私がこの増田にもった最初の印象は「コントロール欲が強い母親」だった。息子を自分の思い描く理想の男性に育てようとしていて、しかも息子本人がそれを望んだと思い込むように仕向けるタイプの。邪悪。なにが邪悪かって、他人の選択に介入して自主性を奪っているところ。実際に敷かれたレールを歩くのは息子だから、主観的にも客観的にも彼は自主的にその方向へ進んだってことになる。おそらく母親は自分がしていることの邪悪さに気づいていないし、むしろ善い行いとすら感じてる。*1この増田が「これぞ新時代のリベラルオピニオン」みたいな顔してるのと同じ。

 

自尊心が大事と言いながら自尊心を削り取ってる

男性の意識の問題だっていうなら、方向性も手段もタイミングも、まず男性の選択を尊重するべきなんですよ。冒頭の鼎談で自分の想定と違う方向性が出てきたら「ダメダメそっちじゃないのよ!」と大慌てで突っ込まずにいられないくせに、「男性の意識の問題」と結論づけるのは欺瞞だ。

ヒーローがプリンセスとくっつけばいいのに〜って言ってる男性たちなんか放っておけばいい。ヒーローぶって社会や他人に害を与えたら、その時はメッタ打ちにしましょう。害を与えるまで黙ってろっていうより、私もプリンセスになってヒーローに庇護されたいわ〜って女性を放っとくのと同じで、単なる嗜好に対して威丈高に正しい・間違いをジャッジする権利なんか誰にもない。

男性がこのように変わってくれたらいいなと願ったり書き込むこと自体は自由だけど、あくまで増田にとってはそのほうがよい、という手前勝手ではあるんですよ。結果として男性も救われることがあったとしても、それはたまたま増田の願いと男性の願いが一致しただけ。

「ヒーロー像」「プリンセス像」は一度打ち壊して、火にくべるときが来た。父権社会の解体が、今世界的なムーブメントになっている。

こんなふうにある価値観を時代遅れで滅ぼすべき劣ったものと位置付けたり、あたかも一つの方向しか残されていないかのようにほのめかしたりするのは誘導であり抑圧だ。せめて自分に都合のいい誘導をしてると認識してほしい。女→男でも男→女でも、自分側にとって益しかない行為を他方に要求する下劣さにもうちょっと自覚的であってほしい。「か弱い純朴な村娘になって王子に犯されてこそ女性は救われる」って男性が書いてたら、どう思う?

 

動かせるのは他人ではなく自分の頭と体だけ

増田は女性が辿ってきた歴史について「「脱プリンセス・ありのままのわたし」運動は着々と進む」「こっちの此岸では「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」を火にくべ始めた」と主体的な運動として認識していながら、男性に対しては何でああしないの?こうしないのは時代遅れだよ?と迫る。

以前読んだ記事で、女性2人が男性や男社会を論評しつつ「男はああでこうで、だから男性性から自由にならないと云々」と言ってるインタビューがあり、その時も私は気持ち悪くて仕方なかった。

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増田もこの女性2人も、あたかも男性の自主的行動を励ますように装いながら、実際は自分好みの型にはめ込もうとしている。それでいて「女からの評価に囚われるな」と言うのはダブルバインドだ。男も女も、人間は評価しあうことでしか関係性を形作れない。世の男性が自分の自由意志でありのままに「女100人ヤリ捨てしてえなー」とか「男性性の抑圧から自由になるにはどうしたらいいだろう」とか言った時に、そのどちらを評価するかは正誤・善悪・新旧ではなく、好みだ。ただ素直に「クリストフ推しです」でいい。

メサイア・コンプレックスとかいう言葉もありますが、過度な世話焼きは支配欲の表れでしかなく、親子関係においては虐待になる。自由意志なんてものは曖昧で、自分の選択が誘導によるものかどうかを正確には判断できないけれども(たとえば100%の自由意志などを想定するのは、ただの自己責任教だ)、私は増田の文章読んで、自分がこんなふうに言われたらさぞ窮屈だろうなと思った。自分の足で進めと言われる一方で、歩く道はここだけだと決められてるなんて嫌すぎる。

何が「ありのままのおれ」なのかは男性が自分で決めなければいけない。「主体的にこの道を選択したのだ」と男性自身が実感できないかぎり、救いなんて訪れようがない。その後に「ありのままのおれ/わたし」と共存する道をお互いに探るしかない。私はまず私自身が、「女性で”も”ある自分」を肯定できるよう精一杯もがきたい。そして同じくもがいている男性や女性に何か協力できることはないかな、と目配せしとくくらいがいい。

*1:女性から男性への支配欲がこういう表れ方をするのは、身体的能力の差と社会的格差なんかが背景にあるだろうとは思う。