腐女子を中心に使われているshipperという自称について

ツイッターのプロフィールなどで見かけるshipperという自称にずっと違和感があり、このまま広まると面倒かつ問題があるのでは、と思ったので書いてみます。おおまかに言って、「日本語圏のshipperの用法が謎」「そもそもその自称は不必要では」という内容です。

日本語圏でのshipper用法と違和感

日本語圏での用法としてはざっと見た感じ、「shipper 20↑」とか「shipper/cosplayer」とかいった形で自己紹介として(プロフィール等で)使われてるようですが、これは英語圏では見ない用法です。ツイッターでもこの用法はほぼ日本語アカウント、まれに他のアジア圏らしき人が使ってるくらい。なので私は当初「どういう意味で使ってるんだ??」となりました。

日本語圏でshipperを名乗る人は多くが腐女子、たまに夢女子、という感じ。もしくはBLと男女両方やるよとか、百合もやるよ、という人たちが自称してるっぽい。腐女子と名乗ってしまうと他ジャンルが省かれてしまうため、いろいろやってますよと一言で示したい時に便利だからという理由*1

さらにもう一つの理由として、「腐女子腐男子)」という呼称を使いたくないから、というものがあるようです。たとえば以下のブログ記事はまさにこの理由でshipperを使いたい、という内容です。

si0r1.hatenablog.comただし、この記事は英語圏同人に普段触れていない方が書いているようで、引用されてるツイート含めけっこう間違ってます*2。たとえばslash好きをslasherと呼ぶのは確かなんですが、これもshipperと同じく単にI'm a slasherなどとは使われないし、この用語自体観測範囲では今はほとんど見かけないです。

概観すると、shipperは腐女子という言葉の単なる代替だったり、カプ好きという意味で使われている印象を受けます。なぜか英語表記のままで。ではその英語圏ではどうなのか、ということで私が知るかぎりの正しい情報を以下にまとめてみます。

英語圏におけるshipperの用法と来歴

Shipping in fandom is the act of supporting or wishing for a particular romantic relationship — that is, a het (different-sex), slash (male/male), femslash (female/female), or poly (three or more partners) ship — by discussing it, writing meta about it, or creating other types of fanworks exploring it. Fans who have and promote favorite ships are called shippers.*3

 

同人ジャンル内におけるshippingとは、特定の恋愛関係—ヘテロ異性愛)、スラッシュ(男性同性愛)、フェムスラッシュ(女性同性愛)、もしくはポリガミー(3人かそれ以上のパートナー)における関係—を議論したり、考察したり、二次創作で掘り下げることによって支持および希求する行為である。自分のお気に入りの関係性を持っていたり、広めたりするファンをshippersと呼ぶ。(筆者訳)

ここでもshippingやshippersは使われても単数形名詞のshipperは使われていません。

私は主に英語圏の同人界隈に生息してますが、I'm a shipperみたいな言い回しは普通しないです。shipper自体がかなり古い用語で(初出は1993年のX-ファイルジャンルだと先述の記事にある)、これはgen(general=同人界隈においてはカプなし二次創作の意)の対比として使われていたものです。今でもジャンル名またはカプ名+shipperという用法は見ますが(たとえば"Spirk shipper"という言い方はします)、shipperを使わずに単にfanとかloverとかいうほうが割合としては多いんじゃないかな。カプらせる、の意味で動詞としてshipを使うのが一番一般的。

加えて、英語圏の一部ではshippingが「原作や公式に対し自分の望みどおりのカップリング展開を要求する行為」を指す言葉として使われてもいるようで*4、shipperと名乗る=カプ押し付け厨みたいに思われるリスクもあるのかもしれない。

言うまでもないですが、この用法でのshipperやshippingは俗語なので、同人やファン文化に親しんでない人に言っても通じないこともあります。

私は正直にいうとshipperは死語だと思ってたので、この数年で日本語圏でshipperを名乗る人が出てきたことになんで今さら?という気持ち。それもカプ名もジャンル名もなしに単にshipperとだけプロフに書かれると「目についたものを何でもかんでも恋愛関係にして妄想します!ってことなのか……?」ってくらい意味が分からない。

外来語を使うリスク

他言語で使われている用語をそのまま使おうとしても、1)元の意味や用法が間違って理解されたまま広まる、2)違う文化圏で使われるうちに独自の用法が生まれてしまい混乱を招く、というリスクがあります。

英語圏ではyaoiが「日本産の男×男フィクション、もしくはそれに似た特徴を持つ非日本産の男×男フィクション」の意味で使われますが、やおいはもともとは同人作品に使われる単語で、商業作品は昔ならJUNE、後にはボーイズラブという区別がありました*5。たとえば『きのうなに食べた?』を指してやおいと呼ぶと日本語話者には違和感がありますが、非日本語話者は平気でyaoiと呼ぶでしょう。

このように、同じ単語でも原語とは違う意味で海外に広まるのはよくあることなんですが、私はこれあまり好きじゃないのです。animeという言葉なんかもそうで、『Avatar: The Last Airbender(邦題:アバター 伝説の少年アン)』はanimeなのか?→animeは日本産作品のことだからanimeじゃない→しかし日本語でanimeとはanimation全般のことであり云々……という議論は英語圏の『アバター〜』周辺だと毎日のようにやってる。

言葉は変化するもの!時代や地域で同じ言葉でも意味が違うのは当然!という言語ナチュラル志向みたいな人もよく見かけます。各言語話者が切り離されて一生を終えるならそれでもいいかもしれないですが、複数言語を日常的に使う人が増えていくと問題がでてきます。他言語話者と話す時は会話に使われる言語において定義にブレが少ない用語を選択できればいいのですが、そもそもyaoiやanimeが原語と意味が違うという事実を知らない人には思いつかないでしょうし、会話中に「ん??何言ってんだろ?」となって初めてお互いすり合わせる……となると非常に面倒です。

外来語が増えていくこと自体は避けられないので仕方ないですが、わざわざ今になってshipperという言葉を輸入するならまず原語の意味と用法をよく把握し、外来語をそのまま使うデメリットも考えるべきです。BLだけでなく百合や男女もやるからとか、腐女子腐男子という言葉を使いたくないから、という理由でshipperを使うなら、素直に該当する新しい造語を開発したほうがいいんじゃないかなーと思います。

そもそも「属性名乗り」は必要なのか

そもそもプロフ欄などで「腐女子/腐男子」や「shipper」という名乗り自体が本当に必要なのかを考えたほうがいいんじゃないでしょうか。男男カプだけを鑑賞して男女や女女は一切見ないって人は多くないはずです。なのにBL「も」読み書きする人間にだけ腐女子腐男子という「属性名乗り」が必要とされる。

百合というジャンルを好む百合好きという名乗りはあり、BLジャンルを好むBL好きという名乗りもありますが、いずれもまずジャンル名ありきであって、愛好者の属性説明のために特別に作られた言葉ではないです。それらとはまったく違う腐女子腐男子という属性名乗りが必要とされる理由は何か。BL好きだけを他と違うものとする特権意識、もしくはレッテル貼りの意味合いが本当にないと言えるでしょうか*6

社会心理学にラベリング理論というものがあります。

社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである。*7

tamenarazu.work社会的に「逸脱」だとされているものの正体は、社会が定めた規則から外れた者を「逸脱」と名付けているにすぎない。つまり「逸脱」とは社会が生み出すものであり、逸脱者や逸脱行為と見なされている対象だけではなく、そう見なす社会こそ研究分析の対象にすべきである、というような理論です。

その上で、セルフラベリングまたは自己レイベリングと呼ばれる行為もあります。

レイベリング者と被レイベリング者との間には、ストーリーを拘束し解体する者とされる者という、非対称的な関係性が成立する。

被レイベリング者は不快な選択行為から自己自身を分離し、他者から押し付けられたレッテルの役割を仕方なく遂行しているのではなく、自分から進んで引き受けたのだというふりをするだろう。

ネガティブ・レイベリングは、社会的にネガティブとされる価値を付与されることによる一次的な苦痛、および常にそうしたカテゴリーで定義されることによる自己定義権剥奪の二次的な苦痛が与えられる。

ポジティブ・レイベリングの場合、付与されるカテゴリーに随伴するポジティブな人格評価による一次的な苦痛が存在しないため(略)他者の定義が取得されやすい。すなわち、カテゴリーに「ひっかけられる」のである。そして、付与されたカテゴリーに基づき、アイデンティティ・ストーリーが再編成される。 『社会的レイベリングから自己レイベリングヘ』*8

つまり、自分からポジティブな意味合いとして名乗ったラベリングであったとしても実はその背後に社会からの要請が潜んでいる場合があり、ラベルがポジティブであるほどその抑圧を自覚しにくいのです。

BLが苦手な人が避けられるように腐女子腐男子やshipperなどと分かりやすく自分をラベリングする、って理由ももちろん理解できるのですが、まずそのような属性名乗り・セルフラベリングが本当に必要なのか考えてみてはどうでしょう。腐女子という言葉が生まれた時点では自虐としてあえて名乗ることで挑戦的かつ主体的姿勢を示す意味合いもあったのだろうけど、今になっては主体的というより抑圧的・他者優先的な側面も大きく、ましてそのラベルを他言語から借用するのは混乱を生むだけでいいことなしです。

ていうかこう書いてみると腐女子腐男子って言葉を使いたくない人はBL好きと言えばいいだけな気もする。あるいはA×B好きとか。私も腐って言い方を避けたい時にそう自称する時あるし。BLもGLも男女もそれ以外も全部合わせてとにかくカプ萌えが好きだからって人も、ジャンル名やカプ名羅列すればじゅうぶん伝わると思うけどな。それだけ色々好きなら属性名乗り自体が本来は不可能なはずで、それなのに無理に名乗ろうとすること自体が無意味じゃないですかね。それか先述したとおり新しい造語を広めるか。

もちろんshipperという自称をどうしても使いたい理由がある人は使えばいいとは思います。ここに書いた以外の理由だとどんなものがあるんだろうと興味あります。

私自身はまだ腐女子腐男子って言葉は便利なので使いますが(この記事タイトルでも使ってるし)、文字数制限がない場所など使わなくていい場面では使わない方向に行くだろうなと思っています。ラベリングする意義をあまり感じなくなってきてるので。繰り返しますが使いたい人は使えばいいと思ってます。ただこういう視点もあるよということで。

*1:https://twitter.com/maruko_CA/status/951305700856090624 など

*2:2021/5/10 追記:上記ブログにて訂正がありましたので併せて参照してください。 海外版BL用語?「slasher」と「shipper」を使ってみたい!(3) - 333

*3:https://fanlore.org/wiki/Shipping

*4:https://morstan.tumblr.com/post/172114450528

*5:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%84%E3%81%8A%E3%81%84&oldid=79717238

*6:「夢女子」も「腐女子」と似たような構造という印象。

*7:ハワード・S・ベッカー『完訳 アウトサイダーズ+ラベリング理論再考』村上直之訳/現代人文社

*8:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/18/satok1994.pdf

テラハ問題雑感・編集による演出にも自覚的でありたい

gendai.ismedia.jp

自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か(斎藤 環) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

違うと思う。リアリティショーの演出とは演技強要やキャラ誘導ではなく「編集」によるもの(スタジオ出演者の言動含む)。これはドキュメンタリーや、報道ですら共通する問題。だからこそ解決が難しい。

2020/06/03 13:14

b.hatena.ne.jp

自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か(斎藤 環) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

<a href="/wschldrn/">id:wschldrn</a> 演出の担い手としての「スタッフの誘導」と「編集」は両方考慮するべきじゃないかな。メモ<a href="https://anond.hatelabo.jp/20200603211735" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://anond.hatelabo.jp/20200603211735

2020/06/03 21:25

b.hatena.ne.jp

メモとのことで返答を求めていらっしゃるわけではないのでしょうが、反応したくなったので。

 

キャラとリアルの区別は本人でもつけようがない

anond.hatelabo.jp

wschldrn氏が想定するように、すべて事後的な編集によって出演者のキャラクター付けが行われているならば

私は「すべて事後的な編集に」よると主張してるというよりは、編集による演出のほうが現場での胡乱なキャラ誘導などよりもよほど明確な作為だし、そっちをまず問題にすべきという立場です。たとえば斎藤氏の記事では、

特定の状況において指定されたキャラとして「リアルな反応」を表出することを強いられる

キャラと自身の区別がつきにくくなるような演出を強いられれば

このあたりの記述が私にはかなり違和感があります。

そもそもよほど極端で意図的なキャラでないかぎり、キャラと自身の区別ってそう簡単にはつかないものではないでしょうか。斎藤氏は文中で「リアルとフィクションのあわいを演ずる」として私と同じことを書いているようにも見えるのですが、上記引用部分と併せて読むと、これは単に「作られたキャラにリアルな感情を乗せる」というような意味で、結局はフィクションとリアルをきれいに峻別可能なものと扱っているようです。

たとえば山里さんの「非モテで根に持つタイプ」みたいなキャラは、テラハの製作陣が「指定」して作ったものか。それとも完全に山里本人のリアルな人格そのものなのか。私はどちらでもあり、どちらでもないと考えています。テラハのようなキラキラ恋愛番組(としてパッケージされている場)では非モテ意地悪キャラでいたほうが席が作れるので、多少キャラを強めに出すことはありうる。一方、足軽エンペラー時代からの彼のエピソードを紐解けば、本当に根っからの陰口コンプレックス野郎であるのも確かで、結婚後の今でも卑屈な攻撃性が染み付いて抜けていない。

(そう、山ちゃんは南海キャンディーズの前に組んでいた足軽エンペラーというコンビで『ガチンコ!』に出演しているのです。芸歴を通してリアリティショーとの関係が深い。)

キャラは人間がカメラに収められる際に不可避的に発生するものであり、スタッフの指導や遠回しな強化子がなくても誰しもカメラの前で完全なリアルではいられないのだと思います。id:nikunonamaeさんが指摘されたようなSNSとの相互的干渉の影響もあるでしょうが、まず何よりもカメラという異物によって自己が完全に客体化されることが大きい。だから仮に撮られただけで放映や配信がなくても、映された人間は絶対にリアルではないはずです。

 

カメラの嘘を信じ込む危険性

また、(元)出演者で今回の件に言及している人は口を揃えて「やらせはなかった」「ただし編集には文句がある」と言っています。これだけを見ても、編集段階での演出にまったく触れずに本件を語るのは無理があると分かるはずです。

https://pbs.twimg.com/media/EZB2D0lUwAAc2vx?format=jpg&name=medium

https://www.instagram.com/iamemika21/?hl=ja

dot.asahi.com(なぜか「やらせ」を否定すると番組擁護だと短絡する人が多いんですが、誰もそんなこと言ってない……)

この件に関して出てきた様々な意見を追っていくと、番組側の問題を指摘する声の多くが当初は「やらせ」「台本」を声高に疑っていたのが、だんだんとトーンダウンして斎藤氏のように「きっちりした台本はなかったかもしれないが」「確かに具体的な指示も強制もなかったのかもしれない」とぼんやりした指摘にとどまるようになっているのは象徴的です。撮影現場での演出も多少はあったでしょうが、そこだけを取り上げて編集の問題点を語らないのは結局のところ、「カメラは真実を映し出す」と無邪気に信じ込んでいるからではないでしょうか。

「NGシーン」を流したり、出演者たちが「演技」をネタにするという解決策は、虚構と現実を完全に切り分けられるという考えが前提にあります。しかし、そのような芝居がかった「演出」はむしろ現代の視聴者には自然なものとしては受け入れられないのではないでしょうか*1。演技ができないはずの「素人」を編集でドラマチックに仕立て、自分の人生をドラマにしたい「素人」の共感を呼ぶのがこの手の番組の基本構造であり、リアリティショーがここまで爆発的に人気になった理由でもあります。真に迫るようなリアルな「演技」ができる出演者など視聴者は求めていないでしょう(それが見たいならドラマを見る)。

テラハに限らずやらせだ、台本だ、で片付けようとする浅い批判が危ういのは、編集によって行われる、より意図的な演出に目が行かなくなる可能性が増すからです。最近では『報道ステーション』が世耕参院幹事長の会見内容を切り貼りしたとの批判を受けて謝罪した件がありましたが、発言者の意図をべつのものに見せかける編集は良くない、と認識できる人は多いのに、テラハのようなバラエティ番組の話になると「台本を渡してるんだろう」などと急に現場レベルでのお芝居しか想定しなくなるのは何なんでしょうね。私はバラエティを見るにもバラエティリテラシー的なものは重要だと考えていますが、リアルとフィクションの境目を曖昧に見せるようなリテラシーが必要とされる番組演出は今後ますます難しくなっていくんだろうと思っています。

 

必要なのは人間の多面性を見せる演出

編集によってドラマを作り出す手法は映像表現の根幹であり、それ自体がいいとか悪いとかいうものではないです。この点はブコメで指摘したとおり、ドキュメンタリーや報道まで視野に据えて考えていく必要があります。リアリティショー特有の問題として語るのはむしろ矮小化ではないかな。

出演者への誹謗中傷を減らすために必要なのは斎藤氏が書くような「虚構度」を上げるような方策ではなく、むしろ逆にカメラが捉えたそのままをできるだけ無作為に見せる方向ではないでしょうか。あるシーンで理不尽に激怒していた出演者が、別のシーンでは喧嘩した相手と普通に会話しながら食事をとっているとか。カメラの前では無意識に「演技」に走る誰もが持つ習性を、厭らしいものとしてではなく自然なこととして捉える視点はありうるはずです。それを通して、出演者たちが当然持っている多面性を映し出し、人間の複雑さを視聴者に提示するべきです。ドラマチックで分かりやすいキャラが満載の番組より見る人は格段に減るでしょうが、出演者の命を危険に晒すような悪意ある編集に頼らず面白さを追求する使命が制作側にはあります。

 

カイジ』の演出に見る優しさ

ところで、今回の件でリアリティショーの構造を『カイジ』になぞらえる意見をたくさん見ますが、数年前に実際にリアリティショーとして作られた実写版カイジこと『人生逆転バトル カイジ』はなかなかの出来だったと今も思います。

www.tbs.co.jp

担当した藤井健太郎は「やらせ」と「演出」の違いを意識的に扱いながら*2面白いバラエティに仕立てる稀有な才能の持ち主で、『カイジ』でも一見どぎつい見世物ショーの体裁を取りながら、最後まで見ると出演者たちを心から応援したくなるような爽やかな後味を残しました。

その中で私がもっとも印象的だったのは、出演者の一人が放った次の一言です。

 

「テレビ的に、あたしらだけでは観てる人が面白くないんじゃないかなって気持ちがあります」

 

発言者はギャンブルで借金を作った地方在住の主婦で、ファーストバトルの鉄骨渡りで敗退した8人の中から一人だけ復活させる者を選ぶ場面での発言でした。他の進出者も全員が「素人」の状態で、敗者の中から芸人・こりゃめでてーな伊藤を選んだ理由です。

この発言が示しているのは、今の時代において芸能人ではない「素人」の側もじゅうぶんテレビに映ることに自覚的であり、さらには番組そのものの成功を出演者として一緒に形作っていく意識すらあるということです。同じシーンでの他の出演者の発言ですが、「盛り上げるには、やっぱ伊藤さんのほうがいいかなって」と話す彼らは、番組の用意したゲームで勝ち残り賞金を手にするという目標とともに、番組の盛り上がりが自分たちの手にかかっていることもはっきり認識しています*3

私が面白いと思うのは、この発言を編集で落とさず使うセンスです。テレビの世界で重宝される「素人」は芸能界のルールに囚われない素朴な奔放さを持ったタイプで、カメラを意識してそれっぽく振る舞う「素人」は疎まれたり叩かれる傾向があります。しかし今の時代、テレビ番組の企画に応募してくる「素人」が自分がどう映されるかに自覚的でない可能性は極めて低いわけで、カメラの前では誰もが「演技」せざるを得ない、という事実をきちんと写し撮って番組に組み込んだ『カイジ』製作陣は誠実だったと思います。普通なら興を削ぐとしてカットされかねないこのシーンをオンエアに乗せることで出演者の彼らはあくまでカメラを意識しつつゲームに参加しているのだという前提を視聴者に印象づけることができるし、それは斎藤氏が提案したNGシーンやらオフショットやらといった現代においては作為的すぎて虚構にしか見えない演出より、よほど効果的でしょう。

参加者たちを「クズ」と呼ぶ原作の世界観を維持しながら出演者たちを気持ちよく応援させてくれた『カイジ』と、おしゃれでキラキラしたシチュエーションで出演者を追い詰めてしまった『テラハ』の違いを、私も視聴者の一人として今後も考えていかないといけないなーと思っています。

*1:ブコメで数人が言及していた暴力的AVの最後に出演者インタビューを入れる手法、あれは「このAVは虚構です」という宣言ではなく、出演者たちが自主的に参加していると示すためにある。暴力的な性行為をプレイとして楽しむ嗜癖は存在するし、犯罪とプレイを分けるのは自由意志で参加しているかどうか。

*2:水曜日のダウンタウン』での彼の肩書きは「総合演出」。

*3:ちなみに同じく敗者の中には空気階段もぐらや岡野陽一もいたのですが、芸人3人の中では一番実力がなさそう=脅威にはならなそうな伊藤が選ばれたあたりも興味深かった。さすがに選んだ出演者たちがそこまで意識してたわけではないでしょうが

でも私は岡村に変わってほしいよ

fuyu.hatenablog.com

矢部さんのアドバイスはありがちなライフハック程度に捉えるのが良いのかなと思う。

矢部が言ってるのは「ライフハック」なんかではないですよ。

発端の発言のせいで岡村のジェンダー観の部分だけでああだこうだ議論されてますが、矢部が言ってるのはそこにとどまらない性格全体の話だし、それがゆくゆくはコンビ活動の今後にも関わってくるという認識なんだと思います。全人格の中でジェンダー観だけが都合よく変わるなんてことはあり得ないし、その意味で認識のアップデートだのと気軽に言うジェンダー界隈の人たちの認識こそ甘いとも言える。

ただそれとは別に、「変える必要はない」には私は同意しない、って記事が以下です。

(※その後fuyu77さんの記事に追記があり、私のメタブを引いて「関係者からしたら変わってくれないと困るというのはありそうかなと思った」とのことでした。以下だいたい同じこと書いてますのでその前提でお願いします)

 

 

まず前提として、「人は変わらない部分を変える必要はない」というのは間違ってはいないです。他人に人間性を変えろと説教する行為それ自体がハラスメントになりうるものだし。

ただ今回の場合、矢部は相方として「性格を変えないかぎりコンビとしての仕事はやっていけない」と宣言した。仕事中は言えるのに仕事外では基本的なありがとう・ごめんなさいも言わない岡村に対し、オンだけでなくオフでも変わってくれないと自分は嫌だと突きつけた。今までは嫌いになりたくないから距離を置き、常識に外れた発言もスルーしてきた。でも限界が来た、ということでの最後通牒がこの放送。

つまりここで「人は変わらない部分を変える必要はない」と岡村が結論するなら、(その結論自体は岡村の自由であり非難されるものでないのは当然として)矢部とのナイナイというコンビは終わりになるということです。矢部は自分がお笑いの世界に誘った側として解散を申し出ることはないが、仮に岡村が解散とは言わないとしても性格を変えないならば、実質的にナイナイというコンビは終わる。リスナーも、岡村がまた今までのような言動をするならナイナイは終わったと見なさなければならなくなる。

「人は変わらない部分を変える必要はない」のはその通りなので、ナイナイがコンビとして今後ほとんどの活動がなくなっても(今もその状態になりつつある)、不仲が今以上に目に入るようになっても、べつに構わないって人も大勢いるでしょう。矢部はそれでは嫌だと思って今回の放送をしたわけですが、強制できるものではないから仕方がない。

 

ただ私はめちゃイケ世代として、そうなってほしくないなと思います。私はナイナイというコンビが好きなので。

 

芸人コンビはよく夫婦に例えられますが、妻の言動が嫌で仕方ない夫が我慢の末に「性格を変えてくれ、でなければ結婚は続けられない」と言ったとして、「いや、変える必要はない。嫌なら離婚すればいい」と助言するかどうか。その夫婦に思い入れがなければ離婚しろになる可能性は高いし(増田の夫婦関係の愚痴にもそういうブクマいっぱいつくよね)、一方で親しい友人夫婦の場合なら「ああ言ってるし努力してみたら」と言うんじゃないでしょうか。妻の言動が常識から外れていたり差別的だったりするなら尚更。

そして、矢部が言っていたのは「他人と向き合え、喧嘩したり喜びあったりするような深い付き合いから逃げるな」ってことですよね。まさに「変える必要はない」の真逆。逃げずに向き合って自分を変えろ、そのために環境を変えろ、と。岡村と向き合うからこそ、矢部は尋常じゃないリスクを承知で今回ラジオに来たわけです。上から目線に聞こえる態度で変われと言ったのはサッカー部の後輩かつ敬語ツッコミの相方という自分の立ち位置をフリにしての演出でしょうし、高圧的だとか一方的だという批判は織り込み済みじゃないかな。私が岡村の友人だったら、ここまでやってくれる相手がいるのに「変える必要はない」とは言えないです。

あと重要なこととして、岡村はそもそも今の状態がだいぶつらいんじゃないでしょうか。風俗通いとか友人の少なさとかのプライベートについては特に、毎日楽しいから変えたくない!と思ってるようには見えない(そう見せたがっているのは分かる)。矢部の環境変えろの助言はそこも見越してるだろうと思うんですよね。

 

以下余談

ここからは余談になるんですけど、岡村の芸人人生ってオフでいられる隙間がほとんどないなあと思います。まずテレビの明るく楽しいキャラがあり、しかもナイナイの真骨頂はロケコント=作り物感をなるべくなくした「本物っぽい」笑い。まるで素の岡村がいつも愉快で、普段から即興コントやってる人間かのように見せる演出。

そしてANNではそんなテレビの岡村とは違った愚痴っぽくて下ネタ大王の岡村を見せる。リスナーはなんとなしに、こっちが本当の岡村のように思えてくる。

今回の放送で暴露されたとおり実際にはANNでも見せていない本当の岡村がその奥にいたわけですが、逃げ癖のある岡村は傷つかないよう素の自分を奥へ奥へと隠し、一方でテレビやラジオでは「これが素ですよ」みたいな顔をし続けてきた。そうじゃないと本当に大事なものまでオンの場に晒されて、笑いにしなきゃいけなくなると岡村は思ったんじゃないかなあ。

たとえばクロちゃんなんかもほぼ全ての生活が日本中に晒されてる芸人の一人ですが、ドッキリであれば芸人側は受け身で済むんですよね。クロちゃんも作ってる部分がないわけではないでしょうが、仮に笑いにならない部分がドッキリで晒されてもクロちゃんのせいにはならない。

岡村の場合は素でない部分を素であるかのように偽装することを余儀なくされているわけだから、「もし本当の素を出したら笑いにならない」という恐怖はものすごかったはず。お笑い界に根強くあるネタ至上主義的価値観も、作り込んだネタがやれないなら素の姿で笑わせろって抑圧になってくる。

今回の矢部の指摘は「オンでもオフでも常識を疑われるような言動はするな」ってことで、ある意味オンオフの垣根を低くして楽にしろ、ただしオフのほうをオンに合わせて行儀よくしろ、って意味かなあと思うんですね。もうオンの自分をオフだと偽らなくていいから、その代わりオフでオンでは絶対しないような失礼をしたりして羽目を外すな、オンをオフと偽ってオフモードで問題発言するな、という。

まあ深読みすぎかもしれないけど、私はまたナイナイ二人揃ったロケコント見たいです。年相応に緩くていいので。今ロケコント見られる番組なんてほぼないけどね……。

告白されてきっぱり断ったらそれはキープではない

この記事。

con2469.hatenablog.com
ブログ主と相手との関係性はお2人のことなのでああしろこうしろとかはありませんが、ブコメについて言いたい。

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい

告られて振った相手にこの素振りキープされてはいないでしょうか

2019/01/30 14:07

b.hatena.ne.jp

三十一文字ブコメは素敵だけど、キープの意味合いが間違ってる。これが現時点でトップブコメってことは、このブコメにおけるキープの用法に違和感を抱かない人が大勢いるということで、まったく納得いかない。ゆえにこのエントリーを書く。

 

告白されてきっぱり断ったらそれはキープではない

キープとは「相手に期待させて都合よく扱うために『きっぱり振らないでおく』こと」を言うんですよ。気をもたせて、もしかしたら付き合えるかも?もう少し待ったら、もっと尽くせば、振り向いてもらえるかも?という期待を煽るだけ煽り、でも実際に付き合ってと言われても決して付き合う気はない。これをキープと呼ぶのです。


すなわち告白されて明確に断られたならキープとは呼ばない。キープの醍醐味は惚れた弱みを利用するだけして交際に伴う諸々の負担は回避することにあるので、キープしたい場合は告白されても明確に答えず、「自分も好きだよ」「でも付き合うのは違う(or早い)かな……」「まだ気持ちが整理できてなくて」等々と言い続けます。セフレが欲しい男性がよく言うやつ。このブログ主は明確に断られてるのでキープではありません。


もう一種類、「明確に断るけど相手のほうから恋愛的アプローチっぽいことを仕掛けられ続ける」というパターンはあります。断って身を引いたのに相手のほうからアプローチが続く、という場合はキープと見なしてもいいのかもしれない。(※アプローチの例→2人で飲みに誘われる、自宅に来たり誘われる、泊まり旅行に誘われる等)どの場合もこちらは何も仕掛けてないのに相手から誘ってくるのがポイントです。まあ仮にこのパターンでも、「キープ」が嫌なら誘いに乗らなきゃいいだけなんだけどね。今回のブログ主の場合、振られた相手に自分から接触し続けてる時点でこの「振られた相手から誘われ続ける」パターンでもないです。


つまりどこからどう見ても正真正銘これはキープなどではない。

私がこんなブログ書くくらい憤慨してるのは、ネット見てると「キープ」の意味を取り違えてる自分勝手な人があまりにも目立つからです。上記のブコメが代表例ですが、これがトップブコメになる時点で大勢の人が自分勝手なキープ定義を用いて他人を断罪してるわけです。

 

ブログ主は告白を明確に断られて、それでも諦められずに追いすがって相手からの反応を求めている人であり、相手であるKさんは単に投げられたボールを返しているに過ぎません。

友人として付き合いたい相手から恋愛を求められるって相当つらいですよ。友情は終わった、というか最初からなかったかもしれない、と認めざるを得ないのだから。これだけの感情をぶつけられても友情を続けてくれるKさんに感謝こそすれ、キープ呼ばわりなんてあり得ないでしょう。

そんなに「キープ」が嫌なら一切連絡取らなければいいんですよ。ズルズルと諦めきれないこと、自分一人では感情を制御さえできないことは自分の問題であって相手の過失ではない。

 

「振ったくせに優しくするのが悪い、気をもたせてキープしたい証拠だ」みたいなトンチンカン理論を提唱する人がよくいますけど、これ本気で言ってんのかな。告白を断るときは精一杯罵倒してツバでも吐きかけないといけないの?そうでもしないと理解しないの?「ごめんなさい、付き合えません」ってはっきり言われてるのに分からないって何。理解したくないから理解しないってだけでしょ。だから自分勝手だと言うんですよ、この手の「キープ」発言する人たちは。

 

ブログ主へのKさんの反応をキープと呼ぶ人たちの思考の根幹にあるのは、「告白されたら感謝して気持ちに応える=付き合うべき」という傲慢極まりない発想なんじゃないでしょうか。じゃなかったら明確に断って、それでも友人として優しく対応してくれるKさんの態度をキープなんて呼ばないよね。

思いが報われなくて悲しかったり悔しかったりする気持ちは私にもよく分かる。でもその悲しさはべつに断った相手のせいではないし、断られた側のせいでもない。単に現状では合わなかったってだけなんですよ。

 

ブコメの惨状

このブコメ欄には他にも腹の立つ意見がゴロゴロあったので、いちいち噛み付いてみようと思います。

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい

止めを刺さず生殺しだな。その理由が知りたいところ。ストーカーになると困るから?自分がモテてる実感を維持したいから?本命の彼に「こんな男がいるの」と嫉妬心を煽りたいから?それともおもちゃが欲しいだけ?

2019/01/30 19:47

b.hatena.ne.jp告白されてきっぱり振ってるのに何が生殺しなの?振ったのに彼女のほうから恋愛対象っぽいアプローチを仕掛けてきたなら分かるけど、元記事にそんな言及は一度もないよね。どう見たってブログ主が振られてるのに諦められず未練がましく追いすがってるだけなのに、なんできちんと振った彼女のほうがここまで悪く言われるの?てかこれこそストーカーの思考そのものじゃん。

 

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい

知人の女性に読んで貰ったところ「ふられてる、完全に、1ミリたりとも希望がない」「ぜんっぜん脈ない」「これ完全に女に舐められてる」との事。まぁ晒す許可貰えた時点でオモチャ扱いされてるってことかも。

2019/01/30 16:40

b.hatena.ne.jp完全にふられてて脈ないのは事実そうだろうけど、「舐められてる」「オモチャ扱い」って何。断られてもなお自分から追いすがってる状況を、なぜそこまで可哀想な被害者扱いできるのか。振られてから一年半の間に何かあったのか知らないけど、進展もさしてないのに一年半前と同じ熱量で好意寄せられたら、相手はそりゃ引くしかないよね。そうでもしないと距離保てないもん。

 

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい

この女の子は営業職か風俗でトップになれそう。生保レディになったらすごそうだ。薄い感想じゃなくて返歌してくれる女を探したらどうかと思った。

2019/01/30 18:33

b.hatena.ne.jpお金とってやる仕事を無償で引き受けてくれてる彼女に感謝するでもなく、感想が薄いから他の女を探せってすごい言い草。

 

告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい

彼氏にも見せてそうやな

2019/01/30 20:14

b.hatena.ne.jp好意を寄せる女性から素っ気なく扱われるとすぐこういう妄想する男性いるけど、その手の妄想して楽しむマゾヒストなのかな。何が悲しくて何の利益もないのに彼氏という大事な相手を心配させるようなことしなきゃいけないのか。ていうかKさんに彼氏いるのに告って振られて短歌送ってたらさすがにバカすぎてブログ主に同情する余地ない。


最後にブログ主とKさんの関係性について感想を述べると、Kさんは現状では彼氏がいないんだろうけど、フリーなのにブログ主とは付き合わないということだから望みは薄いだろうなあと思った。あとはブログでは言及されてないけどKさんが報われない恋愛をしてる可能性もわりと高くて、そういう女性がやたら好きな男性というのはいるので(俺が救ってあげるヒーロー願望的な?)、そういう状態なのかなーとか。

短歌に関しては、最初が文語だったのに途中から全て口語体になってて、統一されてないな?とは思った。良し悪しではないんだけど。

なんにせよ苦しい恋愛をとおして美しい芸術が生まれてきた歴史はあるので、何も知らない外野としては、いつか私好みのものを生み出してくれたら私得だなあ、と無責任なことを思いました。Kさんとのことは今は無理でも、ブログ主には何かよいことが起こるように祈っておきます。

自主性を尊重せずに「男らしさから解放されろ」とか都合よすぎ

アナ雪におけるクリストフが「業者」でしかないことについて不満を述べる男性3人の鼎談に対し、女性らしき増田が反論していくエントリ。

anond.hatelabo.jp

ただ思うのは、脇役のクリストフこそ、「ありのままのおれ像」なのではないかということだ。(中略)
やはり男性も、「ありのままのおれ」になるときだ。「男らしさ」から解放されるときなのだ。(中略)
ヒーローになれない男性が救われるかどうかは、男性の意識の問題なのだと思う。

このエントリ最初のほうは鼎談の感想としてふむふむと読んでたんだけど、続く上記の主張は気持ち悪くてイライラした。はっきり言うけど、私この増田の口ぶり大嫌い。何この、自分に都合のいいようにレール敷いて「ほら、あなたのために敷いてあげたよ?自分で歩いてみよ?ねっ?」みたいな態度。これを男性が「我々」を主語として書くならむしろ好ましいと思う。でも多分この増田は女性だよね。

この文章の一番の矛盾は、

アナもエルサも自分たちの問題は自分たちで解決したいし、しなきゃいけない

と嘯きつつ、男性には上記のとおり「ヒーローになれない=「男らしさ」からの解放=ありのままのおれ」というルートを決めうちで押し付けている点。「男らしさ」から解放された男性がクリストフみたいになるかなんて分からないのに(トラバやブコメでは異論が多くある)、これぞ男性がなるべきありのままのおれなんですよ、と断言する不躾さ。そこにまったく自覚的じゃなさそうで本当にイライラする。それ単にあなたの性癖(誤用)ですよね。

私がこの増田にもった最初の印象は「コントロール欲が強い母親」だった。息子を自分の思い描く理想の男性に育てようとしていて、しかも息子本人がそれを望んだと思い込むように仕向けるタイプの。邪悪。なにが邪悪かって、他人の選択に介入して自主性を奪っているところ。実際に敷かれたレールを歩くのは息子だから、主観的にも客観的にも彼は自主的にその方向へ進んだってことになる。おそらく母親は自分がしていることの邪悪さに気づいていないし、むしろ善い行いとすら感じてる。*1この増田が「これぞ新時代のリベラルオピニオン」みたいな顔してるのと同じ。

 

自尊心が大事と言いながら自尊心を削り取ってる

男性の意識の問題だっていうなら、方向性も手段もタイミングも、まず男性の選択を尊重するべきなんですよ。冒頭の鼎談で自分の想定と違う方向性が出てきたら「ダメダメそっちじゃないのよ!」と大慌てで突っ込まずにいられないくせに、「男性の意識の問題」と結論づけるのは欺瞞だ。

ヒーローがプリンセスとくっつけばいいのに〜って言ってる男性たちなんか放っておけばいい。ヒーローぶって社会や他人に害を与えたら、その時はメッタ打ちにしましょう。害を与えるまで黙ってろっていうより、私もプリンセスになってヒーローに庇護されたいわ〜って女性を放っとくのと同じで、単なる嗜好に対して威丈高に正しい・間違いをジャッジする権利なんか誰にもない。

男性がこのように変わってくれたらいいなと願ったり書き込むこと自体は自由だけど、あくまで増田にとってはそのほうがよい、という手前勝手ではあるんですよ。結果として男性も救われることがあったとしても、それはたまたま増田の願いと男性の願いが一致しただけ。

「ヒーロー像」「プリンセス像」は一度打ち壊して、火にくべるときが来た。父権社会の解体が、今世界的なムーブメントになっている。

こんなふうにある価値観を時代遅れで滅ぼすべき劣ったものと位置付けたり、あたかも一つの方向しか残されていないかのようにほのめかしたりするのは誘導であり抑圧だ。せめて自分に都合のいい誘導をしてると認識してほしい。女→男でも男→女でも、自分側にとって益しかない行為を他方に要求する下劣さにもうちょっと自覚的であってほしい。「か弱い純朴な村娘になって王子に犯されてこそ女性は救われる」って男性が書いてたら、どう思う?

 

動かせるのは他人ではなく自分の頭と体だけ

増田は女性が辿ってきた歴史について「「脱プリンセス・ありのままのわたし」運動は着々と進む」「こっちの此岸では「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」を火にくべ始めた」と主体的な運動として認識していながら、男性に対しては何でああしないの?こうしないのは時代遅れだよ?と迫る。

以前読んだ記事で、女性2人が男性や男社会を論評しつつ「男はああでこうで、だから男性性から自由にならないと云々」と言ってるインタビューがあり、その時も私は気持ち悪くて仕方なかった。

www.e-aidem.com

増田もこの女性2人も、あたかも男性の自主的行動を励ますように装いながら、実際は自分好みの型にはめ込もうとしている。それでいて「女からの評価に囚われるな」と言うのはダブルバインドだ。男も女も、人間は評価しあうことでしか関係性を形作れない。世の男性が自分の自由意志でありのままに「女100人ヤリ捨てしてえなー」とか「男性性の抑圧から自由になるにはどうしたらいいだろう」とか言った時に、そのどちらを評価するかは正誤・善悪・新旧ではなく、好みだ。ただ素直に「クリストフ推しです」でいい。

メサイア・コンプレックスとかいう言葉もありますが、過度な世話焼きは支配欲の表れでしかなく、親子関係においては虐待になる。自由意志なんてものは曖昧で、自分の選択が誘導によるものかどうかを正確には判断できないけれども(たとえば100%の自由意志などを想定するのは、ただの自己責任教だ)、私は増田の文章読んで、自分がこんなふうに言われたらさぞ窮屈だろうなと思った。自分の足で進めと言われる一方で、歩く道はここだけだと決められてるなんて嫌すぎる。

何が「ありのままのおれ」なのかは男性が自分で決めなければいけない。「主体的にこの道を選択したのだ」と男性自身が実感できないかぎり、救いなんて訪れようがない。その後に「ありのままのおれ/わたし」と共存する道をお互いに探るしかない。私はまず私自身が、「女性で”も”ある自分」を肯定できるよう精一杯もがきたい。そして同じくもがいている男性や女性に何か協力できることはないかな、と目配せしとくくらいがいい。

*1:女性から男性への支配欲がこういう表れ方をするのは、身体的能力の差と社会的格差なんかが背景にあるだろうとは思う。

サンタコスの女の子がかわいそうだよー!

cakes.mu

やれたかやれないかで言ったら、付き合えたらやれただろうけど付き合えなかったから「やれたとは言えない」ですね私も。
これを「やれた」と思っちゃうのは、この女の子が初デートでサンタコスしたり腕組んだり最後はそのままの格好で帰ったりするあたりから漂う「猛者感」「経験いっぱいありそう感」からかなと思うんですけど、違うよそうじゃないよ。
この子は確かに恋愛経験(セックス経験ではなく)豊富そうだしモテそうだしそれを自分でわかってるだろうけど、だからと言って大沢くんとやるかどうかは別なんですよ。
モテる女の子=股が緩い子ではない。この子はセックスを安売りしなくてもモテてきた子だろうから、やるにはまず正式に恋人関係になる必要がある。告白もなく流れでデート初日にお泊まりとかするタイプではない(しかも職場関係だし)。

この主人公が問題なのは、デートを申し込む勇気は出せたのに、そのデートを盛り上げる配慮をぶん投げてるところですよ。
せっかくデートOKしてくれて、当日もちゃんと可愛い服を着てきてくれて、サプライズサンタコスまでしてくれて、「先パイと2人だからですよ」とまで言ってくれてるのに、主人公は脳内野球に夢中でやるべき反応をぜんぜん返してない。
唯一デート最初に服を褒めてるんだけど、そこでもちゃんと女の子は「ありがとー」と嬉しそうに返してますよね。
なんでそれを継続しないのか。この褒め↔︎褒めコミュニケーションを通して親密になっていくのをなんで放棄したのか。
野球とか選曲とかどうでもいいんですよ。目の前の相手をちゃんと見なよと言いたい。ほんと「なーにテンパってんだか」ですよ。デート中に一人遊びをするな。しかも自分から誘っといて。

これ女の子の側から見たらひどいですよ。
サンタコスまでしてんのにチラチラ見てくるわりに時間たってから「え?あれ?」と今気づいたかのように遠回しに言及するだけで褒めもしないんだよ。私だったら恥ずかしさで死ぬ。
13ページ下の「……」はそういうことだと私は思います。取り乱したかなんだか知らないけど、せっかくのサンタコスを褒めもせず嘉門達夫に逃げる相手を見たガッカリ感。
誘われたし今フリーだからちょっと行ってみようかな〜この人私のこと好きなのかな?どんな人かよく知らないけど仲良くなれるかな〜、ってところからの、サンタコス喜んでくれるかな??って期待が裏切られて、まあいいや〜あんまり私に興味ないっぽいし、で「じゃーねー」です。
せっかくのデートだし誘ってくれた相手には喜んでもらおうとするじゃないですか。身体に自信があるなら身体を使って。付き合ってもないのにクリスマスなんだからプレゼントよこせとか言う相手よりずっとずっといいでしょう。サンタコスなら物も残らないしお返しがどうのとかなりにくいし。
なのにその反応かよみたいな。女側から見たら、コスや「先パイと2人だから」にドン引きしてるのかなって思われても仕方ないよ。その気持ちが嬉しいってちゃんと伝えてあげればいいのに野球なんかに夢中でさ。失礼しちゃうわ。

いやまあ彼女は怒っていないと思うんですけどね。
この漫画がうまいのは、この子はこうしてデート相手を喜ばせようと頑張るいい子だけども、同時に自分に自信があるからちょっとくらいこうやってスカされてもダメージは少ないよって最後に見せてるところですね。
私だったら死ぬほど恥ずかしくて、おのれ大沢!ってなって仕事に影響出しそうなところでも、こういう子ならもっといい相手がすぐに見つかるし引きずらずにいてくれそうだもの。
あるいはそういうタイプですよって分からせるためにあえてサンタコスのまま帰っていったのかな。どちらにしろいい子ですよ。
せっかく気になる相手ができてデートに来てくれたんだから、その喜びと感謝は出し惜しみせず精一杯伝えましょう。やれてもやれなくても。

日本語で言う「ゾーニング」とはそもそも何なのか

anond.hatelabo.jp

「先鋭化していくオタクたちの『表現』にはついていけなくなった」増田さんが、諦めとともに「『規制やむなしだろうな』という立場」として意見を綴った記事。
私はこれにブクマ&メタブクマをつけ、追記で増田からの返信をいただいた。メタブクマの時点では追記に気づいてなかったので、改めてここで返信、というほどでもないけど所感を書いておきます。

 

日本語における「ゾーニング」の曖昧さ

増田の文章では「ゾーニング」「表現規制」といった言葉が何度も使われているけれど、どうも定義に混乱があるように思えてならない。ブコメでも突っ込まれてるし増田も追記で釈明しているけど、そもそもの問題として、日本語で言う「ゾーニング」はかなり特殊な使われ方をしているんではないか、と思います。

ゾーニング [1] 【zoning】
〔区分する意〕
都市計画や建築プランなどで,空間を用途別に分けて配置すること。
(三省堂 大辞林より)

英語で言うzoningは上記のとおり、主に都市計画などで住宅地域と商業地域を区分したりすることを指します。他にも住宅の間取りや土地の割り振りなど、物理的に場所を区分することがゾーニングと呼ばれており、これは日本語でも一般的にはこちらの意味です。
にも関わらず、日本(のネット)で「ゾーニング」の議論が起きるのはほぼ毎回、表現規制関連の話題。
Wikipediaのゾーニング(曖昧さ回避)のページにある

6.コンテンツの閲覧を年齢別に区分すること(主に成人向けコンテンツを区分することを目的とする。映画の成人指定、ゲームソフトのZ指定など。レイティングとも)

この6番目の記述がネットでよく言われる「ゾーニング」になる。とは言っても、ここにもある通り日本語の「ゾーニング」は「レイティング」の意味で使われていることも多く(後述するけど増田の元記事もこの混同がある)、人によって定義がバラバラで混乱するんだよね(英語のzoningは表現規制関連の話題で日本と同じようには使われていない……という印象があるんだけど、ちゃんと調べてはいない。詳しい人いましたら教えてください)。

 

ネット上で「ゾーニング」は可能か?

一応私なりの定義としては、「ゾーニング」は「主に物理的な場所において区分すること」。本屋で成人指定発行物用に棚を分けたり、暖簾の向こうにAVコーナーを作ったり。だから増田の

モザイクも広義のゾーニングのはずだ。売る場所を分ける、売る相手を身分証などで限定する、表現の一部をモザイクや黒塗りで抑える、そもそもそういう表現を用いない、など、ゾーニングにも各段階が必要になるはずだ。

については、モザイクがゾーニングだという時点で、私とはゾーニングの定義がまったく違っている。私が考えるゾーニングは増田の挙げた例で言うなら、「売る場所を分ける」がそれにあたる。「売る相手を身分証などで限定する」はレイティング。表現内容そのものに手を入れる(モザイク、黒塗り、そもそもそういう表現を用いない)は表現内容への干渉。私が主に反対しているのはこの最後の内容規制。

だから、増田がたとえば性器をモザイク処理することをゾーニングと呼び、「理想としては『ゾーニング>規制』」と書くなら、私から見ればそれはゾーニングと名前を変えただけの内容規制そのものでしかないので、まったく賛同しない。

もしかしたら増田は、「ゾーニング」を「自主的な表現規制」という意味で使ってるのかな。私は「表現規制」という言葉は政府や自治体が表現物に対してなんらかの制限を 「強制的に」行うことと認識している。だから発禁だけでなく、緩やかなゾーニングであれ、守らないと法律や条例によって罰されるならそれも表現規制と考える。

一方で製作者や出版社等が行う自主規制は表現規制とは呼ばない。たとえどんなに厳しい基準が設けられても、業界内の空気で半強制的に行われていても、法律や条例で罰を受けるんでないならばあくまで自主規制(自主規制自体の是非はおいておくとして)。
 

ただしネット以前の時代ならこの物理的隔離で済んだ「ゾーニング」が、ウェブ上では無理なので実質的に年齢制限のレイティングがゾーニングになっているとは思う。アダルトサイトの入り口で18歳以上ですか?と聞かれるあれが、レイティングを兼ねたゾーニングなのかなと。日本語の「ゾーニング」の混乱は、ウェブの非物理的特性が生んだものかもしれない。

 

ところで、ウェブ上でもある程度なら強制的ゾーニングを施すことができなくはない。昔の腐女子がやっていたrobot.txtで検索エンジン回避したりするやつ。あるいはラベリングと言って、ある年齢以下の閲覧者に見せたくないものを自ら申請して、設定済みの端末やブラウザからは見えなくする手段もあった。しかしああいった逆SEOはネット時代のゾーニング手段として生き残ることはなく、むしろ腐女子キメェwwwと嘲笑され、まとめサイトに晒され、ブクマしないでほしいのですと言っても「ネットに境界を設けるな」と正論を唱える人たちに押し切られ、無残にも消え去った。

私がゾーニング賛成派に対して懐疑的なのはそういう腐女子の敗残を目にしていたからという理由もある。個々人が必死にできるだけのゾーニングをしたところで、こんなゾーニングは不十分だと文句を言う人たちはどこまでもどこまでも追ってくる。なら表現物は消えるか、どんなゾーニングも完璧にはできないと開き直って垂れ流すか、どちらかしかない。まあ大多数の表現者は、時たま理不尽な叩きにあいながら、粛々と自分の思うゾーニング基準を順守しているだろうけど。

私はゾーニング賛成派に不信感があるけど、きちんとした議論を経て妥当な、不具合があれば修正・改善していける可塑的な制度としてのゾーニングであれば賛成できるかもしれない。でも小野ほりでいさん言うところの「ゾーニング破り」が正義漢みたいな顔で幅を利かせている状況じゃ、無邪気にゾーニング賛成!なんて言う気になれない。

togech.jp

 

疲れても諦めずに議論をしたいのよ

増田は

規制とゾーニングの話からいきなり「当然モザイクなどの〜」と飛躍するのはどうか。

と言うけど、私が「当然モザイクなど性器修正には反対してるんだよね?」と書いた意味がこれで伝わったでしょうか。飛躍なんかしてないよ。ゾーニングは「このゾーン内ならこの表現してもいいですよ」という形であるべきだから。ゾーニング賛成するのにモザイクみたいな自主規制やらわいせつ規定やらも支持するなんて筋が通らない。

実際、今の日本はこの「ゾーニングした上でモザイクもかける」状況ですよね。AVは暖簾の向こうに隔離されゾーニングされているのに(ついでに年齢確認などのレイティングもある)、作品にはモザイクがかけられている。商業でも同人でも、国内で合法的に修正のない性器を表現できる場はほとんどない。映画『ぼくのエリ』で最も重要なシーンが国内版だけモザイクかけられてて意味不明になってた恨みは忘れない。加えて、日本のゾーニングはほぼエロのみにしか適用されないから、暴力・猟奇描写などの理由でレイティングされている作品(ホラーとかバイオレンスものの映画など)はAVのようには隔離されずにレイティング無しの作品と混じって陳列されている。

こういう状況に異を唱えない時点で、規制には反対だけどゾーニング賛成!と言う人たちを私は信用できないんですよ。 彼らの言うゾーニングは見たくないものを見えにくい場所に押し込めることであり、押し込められたその先でも現状と同じようにモザイクなどの内容規制がまかり通ると考えてるんじゃないかと。増田がそうだとは言わないし、ブコメゾーニング賛成していた人たちの中でも考えは色々あるでしょうが、このあたりを具体的に議論しようとする人って本当に少ない。暖簾での隔離が妥当でない、不十分だ、とかいう議論なら分かる。ならば今後はどう変えていけばいいのか考えればいい。でもゾーニング賛成!と無邪気に言う人たちはとにかく隔離しろって言うばかりの印象がある。コンビニにエロ本置くなはいいとして、子供にも買えてしまう(ように見える)から問題なのか?立ち読みを防げばいいか?表紙が目に入ることが問題か(だとしたらコミックLOなら問題ないか)?

増田はもうとっくに諦めていて、だからこそ規制に賛成せざるを得なくなってしまったんだろうと思う。正直言って気持ちは分かる。まなざし村がどうのと揶揄して遊んでる人たちにはうんざりする。腐女子の自重強制はおかしいと言っておきながら、ジャンルの揉め事やエロ絵が拡散されたりして注目が集まると「これはちょっとどうなの」とか言って私は腐女子だけど良識派なのよ、とでも言いたげな人たちにも疑問が尽きない。*1

でもまあ私はもうちょっと考えたい。ゾーニングの設計について具体的で生産的な議論ができるなら、そのほうがいいし。

*1:ゾーニングしろ棲みわけしろと叩くことは自重強制にはあたらないと考えているようで、彼らの言う強制とかゾーニングってどういうものなんだろうと。